コンスタンティノス9世モノマコス

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ハギア・ソフィア大聖堂内のモザイク画『キリストと皇帝コンスタンティノス9世・ゾエ夫妻』。左がコンスタンティノス9世

コンスタンティノス9世モノマコスギリシア語Κωνσταντίνος Θʹ Μονομάχος, Kōnstantinos IX Monomakhos, 1000年 - 1055年1月11日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝皇帝(在位:1042年 - 1055年)。ロマノス3世アルギュロスの縁戚。モノマコスは姓で、「孤独な戦士」の意。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス9世モノマホス」となる。

先帝ミカエル5世は、自身が親政を行なうために邪魔な存在であった皇太后ゾエを追放しようと図ったが、逆に捕らえられて、盲目にされたうえで追放された。その後、ゾエが妹のテオドラとともに女帝として即位したが、二人は仲が悪く、うまく統治できなかったため、わずか2ヵ月後で二人は退位。ゾエが元老院議員であったコンスタンティノス・モノマコスと結婚し、彼を皇帝として即位させた。これが、コンスタンティノス9世モノマコスである。

当時帝国内では文官官僚の元老院議員と地方の軍事貴族とが対立していた。文官出身のコンスタンティノス9世は文官貴族を優遇し、官職を増やして官僚制を肥大化させ、財政支出を増加させた。さらにコンスタンティノスとゾエ・テオドラ姉妹は奢侈に耽って財政の困窮に拍車をかけた。軍事面では兵農兼業の農民を納税者に代えて傭兵制を導入し、同時に財政難を補うために軍縮を推進したが、軍事貴族の反感を買ったばかりか、帝国の軍事力の低下を招いてしまった。

また、首都の有力商人を元老院議員とした。これは支配層に新しい血を導入することになったが、後に商人達が国家に寄生する階層となってしまうことになった。他方、文化面では宮廷にミカエル・プセルロスらの優れた人材を集め、宮廷を中心に法学・文学・哲学が栄えた。

1043年en:Rus'–Byzantine War (1043)

このようなコンスタンティノスの政策に対し、各地でテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンク1047年)などの軍事貴族出身の将軍達が反乱を起こし、帝国はさらに衰退してしまった。反乱は何とか鎮圧したものの、1043年南イタリアの守備を担当していたマニアケスが反乱を起して死亡したために南イタリアにはノルマン人が侵入し、イタリア半島の帝国領は失われていった。

1054年、共に野心的であったローマ教皇レオ9世コンスタンティノポリス総主教ミカエル1世ケルラリオスとの関係が決定的に悪化。7月16日にフンベルト枢機卿がハギア・ソフィア大聖堂の宝座にミカエル1世とその支持者に対する破門状を置き、ミカエル1世も民衆を扇動して皇帝を動かし、ローマ教会の使節団の破門を決定した。コンスタンティノス9世自身はノルマン人南イタリア侵入に対抗するために両教会の関係改善を望んでいたが、意志が弱いコンスタンティノスはミカエル1世を抑えられず、東西キリスト教会の分裂は深まった(東西教会の分裂)。

このように帝国が混迷を極める中での1055年に病死した。

子女

関連項目

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