クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス

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テンプレート:サッカー選手 アラウージョことクレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス(Clemerson de Araújo Soares、1977年8月8日 - )は、ブラジルペルナンブーコ州カルアル出身のプロサッカー選手ポジションフォワード


来歴

ブラジル時代

初めてクラブチームに所属したのは17歳の時で、ブラジル人としては比較的遅い。プロになった当初は体重50kg程度と余りに痩せていた為、大成するとは期待されていなかった。しかし徐々に頭角を現し、1997年に強豪ゴイアスECに移籍すると7シーズンの長きに渡り、同クラブで活躍した為に看板選手となる。ゴイアス時代の通算136ゴール(州選手権やカップ戦など含む)はクラブ歴代トップの成績。「ゴイアスの至宝」や「マタドール」との異名をとった。1998年にはセレソンにも初選出されたが、若くてムラッ気がある選手という評価で代表に定着はできなかった。ブラジル時代のアラウージョは、どちらかと言えばシャドーストライカー(セカンドストライカー)タイプの選手で、球離れが悪い典型的ドリブラーだった為にサイドハーフなどフォワード以外のポジションで起用される事も多かった。

Jリーグ時代

2004年清水エスパルスに入団。この知らせを聞いた前年のJリーグ得点王ウェズレイ(当時名古屋所属)は「あんな凄い選手がJリーグに来るのか」と驚嘆したと言う。しかしアラウージョにとって初めての海外でのプレーでもあった2004年シーズンは、1stステージこそ北嶋秀朗久保山由清とトライアングルを組みチーム最多の8ゴールを挙げたが、石崎信弘が監督に就任した2ndステージは戦術面を理由に主力構想から外され、公式戦5戦連続でスタメンを外される等本領を発揮出来ず結局1ゴールのみに留まった。

2005年1月、ガンバ大阪へ完全移籍。不遇となった清水時代後期とは打って変わり、この年アラウージョは獅子奮迅の活躍を見せる。始めこそ連携に若干戸惑ってはいたものの、中断期間を終えた7月以降、チームにフィットすると一気に大爆発。再開初戦の第13節東京ヴェルディ1969戦では3ゴール4アシストと驚異的なプレーを見せると、以降重要な試合で次々とゴールを量産。リーグ最終節川崎フロンターレ戦でも2ゴール挙げ、チームをリーグ初優勝に導くとともに自身も33ゴールを挙げ、2位のワシントンに11点差をつけて同年の得点王に輝く(なお国際サッカー歴史統計連盟IFFHS)が2006年1月3日に発表した、世界の主要国内リーグを対象とした2005年の得点ランキングで、アラウージョのリーグ戦33得点は同年世界第1位、得点率は世界第2位にランクされた)。また、準優勝したナビスコカップでも得点ランキング単独トップとなり、非公式記録ながらアシスト数もJリーグトップを記録する大活躍であった。スペースの無いところでも突破し、ゴールに繋げる細かなテクニックに加え縦へのスピードにも優れ、リターンパスやドリブルなどを用いて中央を突破、精度の高い左足で数多くのゴールやアシストを生み出すストライカーへと成長した。

前線でトライアングルを形成したフェルナンジーニョ大黒将志との絶妙なコンビネーションで数多くのアシストも記録した。しかし家庭の事情やブラジル代表に復帰し、翌年に控えたワールドカップ出場という夢もあり、同シーズンでガンバ大阪を円満退団が発表された。

2005年12月17日、ガンバでのラストマッチとなった天皇杯5回戦柏レイソル戦でも有終の美を飾る2ゴールを挙げ、ナビスコカップでの6ゴールも合わせて公式戦年間41ゴールを達成。これは中山雅史(磐田)が1998年シーズンに記録した40ゴールを上回るJリーグ新記録で、合計41得点のなかにPKでの得点は1点も無かった。この驚異的な成績から2005年度JリーグアウォーズMVPや「日本年間最優秀選手賞」を受賞。2005年に彼が33得点を決めて以来、リーグ戦で30得点以上を記録した選手は現れていない。

ブラジル復帰後

2006年シーズンからは母国の名門クルゼイロECに移籍。2月1日、ブラジル復帰2戦目となったミナスジェライス州選手権・デモクラッタ戦で2ゴールを決めるなど順調な滑り出しであったが、2月8日の同選手権ヴィラ・ノヴァ戦で右膝を負傷し途中交代。検査の結果、右膝半月板・靭帯損傷の全治7ヶ月の重傷であることが判明。ドイツW杯への夢は絶たれてしまったが、リハビリの甲斐あって12月4日のボタフォゴFR戦で途中出場し、約10ヶ月ぶりの復帰を果たす。

年が明け、2007年には完全復活ともいえる大活躍。ミナスジェライス州選手権では11試合で11ゴールを挙げ断トツの得点王に輝いた[1]

カタールリーグ

2007年8月にクルゼイロからカタールリーグアル・ガラファへ完全移籍。同時に日本の鹿島アントラーズジュビロ磐田清水エスパルスUAEアル・ジャジーラなどが獲得オファーを出していたことも明らかになった。 アル・ガラファでも移籍直後からエースストライカーとして活躍し、2007/08シーズン、2008/09シーズン、2009/10シーズンとチームのリーグ3連覇に貢献。2007/08シーズンにはリーグ得点王も獲得した。2009/10シーズンからは郷土・ペルナンブーコ州の英雄であるジュニーニョ・ペルナンブカーノと共にプレーした。

ブラジル復帰

2011年、母国のフルミネンセFCに移籍した。 2012年5月、昇格組のナウチコにレンタル移籍した。

所属クラブ

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1995||rowspan="2"|A・ポルト||||rowspan="2"|セリエC|||||||||||||||| |- |1996|||||||||||||||||| |- |1997||rowspan="7"|ゴイアス||||rowspan="2"|セリエA||5||0|||||||||||| |- |1998||||20||10|||||||||||| |- |1999||||セリエB||29||5|||||||||||| |- |2000||||rowspan="4"|セリエA||24||5|||||||||||| |- |2001||||26||7|||||||||||| |- |2002||||25||11|||||||||||| |- |2003||||41||12|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2004||清水||8||rowspan="2"|J1||29||9||7||1||0||0||36||10 |- |2005||G大阪||9||33||33||11||6||2||2||46||41 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2006||rowspan="2"|クルゼイロ||40||rowspan="2"|セリエA||1||0||||||||||1||0 |- |2007||7||14||5||||||||||14||5 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2007-08||rowspan="4"|アル・ガラファ||rowspan="4"|10||rowspan="4"|QSL1部||27||27||4||3||3||4||34||34 |- |2008-09||27||20||4||4||3||2||34||26 |- |2009-10||21||15||12||17||0||0||33||32 |- |2010-11||9||6||6||3||0||0||15||9 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2011||フルミネンセ||25||rowspan="2"|セリエA||6||0||||||||||0||0 |- |2012||ナウチコ||10|||||||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始163||50|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行29||5|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行|||||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行62||42||18||7||2||2||82||51 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行84||68||26||27||6||6||116||101 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終|||||||||||||| |}

テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2008||rowspan="3"|アル・ガラファ||rowspan="3"|10||4||2 |- |2009||5||5 |- |2010||8||5 |- !通算!!colspan="2"|AFC |17||12 |}

タイトル

クラブ

ゴイアスEC
ガンバ大阪
クルゼイロFC
アル・ガラファ

個人

代表歴

関連項目

出典

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:日本年間最優秀選手賞 テンプレート:Jリーグ年間最優秀選手 テンプレート:Jリーグ得点王 テンプレート:Jリーグベストイレブン (FW)

テンプレート:カタールリーグ得点王
  1. http://www.rsssfbrasil.com/tables/mgtops.htm