カネ長武田百貨店

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カネ長武田百貨店(かねちょうたけだひゃっかてん)は、青森県に出店していた日本の百貨店である。現在のさくら野百貨店ルーツの一つにあたる。

歴史・概要

元は安政年間に創立した「武田呉服店」で、1949年昭和24年)「株式会社カネ長武田」に改組、1961年(昭和36年)には百貨店営業登録をした。

1960年代に青森市新町[1]八戸市1964年(昭和39年))に出店[2]するなど急速に成長し、1965年(昭和40年)には青森店が売上高18.0億円を記録し、売場面積で上回る松木屋の13.7億円に大きな差を付けて青森市の地域一番店となった[3]。建物は当初は3階建てだったが[4]、1960年代初頭に4階建てに[5]、更に1967年(昭和42年)頃に6階建てに増床され、1977年(昭和52年)には郊外にサンロード青森が開店するのに対抗し増床を行い、現在の外観になった。八戸店はその後撤退。店舗はその後家電量販店に使われた後閉鎖されたが、現在は解体され、後に駐車場となっている。

1971年(昭和46年)頃には弘前市土手町黒石市に出店。津軽地方を基盤にした経営に移行する。その頃からスーパーマーケットタケダストア」の事業展開を始める[6]。黒石店はタケダストア黒石店を経てニチイ黒石店となるが、1990年代後期に閉店となった。

包装紙等は青森県らしくりんごの切り口やりんごの花のイラストが使われた。

1978年(昭和53年)3月に新時代の百貨店を目指してニチイ(現・マイカル)の支援を受けて山田百貨店イチムラ丸光小美屋の百貨店4社と共に「株式会社百貨店連合」(現・さくら野百貨店)を設立し、同年4月に百貨店連合が設立に参加した百貨店5社と経営管理に関する業務委託契約を締結して業務を委託した[7]


1981年(昭和56年)3月に先行して山田百貨店とイチムラの2社と合併して株式会社武田山田百貨店を発足させた[7]

その後、1982年(昭和57年)9月に株式会社百貨店連合が武田山田百貨店や[7]1982年(昭和57年)3月に丸光(本社仙台市、資本金8億円)と合併して株式会社丸光小美屋を設立していた丸光小美屋と合併して[8]5社が経営していた百貨店の経営を完全に引継いだため、法人名から武田の名が消えることになった。。

1985年(昭和60年)3月に「ダックシティ」に社名変更し[7]、翌1986年(昭和61年)、店名を「ダックシティカネ長武田」と改める。

1990年(平成2年)のマイカルビブレ事業本部と業務提携に伴って1991年(平成3年)に店名をビブレ(VIVRE)に変更することになり[7]1993年(平成5年)、八戸の丸光1991年(平成3年)に「ビブレ」に改称されたのをきっかけに青森店は青森ビブレに店名を変更した。 現在はさくら野百貨店青森店として使われているが、カネ長武田のロゴは未だに店の横に取り付けられた縦長看板の上部に使用されている[9][10]

弘前店も1993年(平成5年)10月に従来の土手町から国道7号弘前バイパス近くに移転し、弘前ビブレとして新しくスタートした[11]。弘前の旧店舗はその後しばらくそのままだったが、現在は取り壊され駐車場ビル(したどてスカイパークビル。1999年(平成11年)竣工。コミュニティ放送エフエムアップルウェーブが入居している)に生まれ変わった。

脚注・出典

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関連項目

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  • 1・2階が衣料品売り場、3階が大食堂、地下1階が食料品売り場。
  • この当時は屋上に展望台があった。
  • 1971年当時は旭町店・佃店・松原店の3店舗だった。70年代半ばには仙台市にも進出している(撤退時期不明)。松原店はニチイに転換後現在リサイクルショップになっている。
  • 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 テンプレート:Cite report
  • 『川崎市史 通史編 4 下 現代 産業.経済』 川崎市、1997年。
  • ビルの所有者が現在の親会社でカネ長武田関連の不動産会社武田であるため。
  • 店舗の変遷によってロゴの使用方法も変わっており、ビブレ時代はビブレの緑地に白のカネ長のロゴ、さくら野時代は縦長看板をやや小さくしその上部に正方形の紺地に白のカネ長のロゴを掲げている。
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