エムデン (軽巡洋艦・初代)

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エムデン (軽巡洋艦・初代)
艦歴
発注: ダンチヒ工廠
起工: 1906年4月6日
進水: 1908年5月26日
就役: 1909年7月10日
退役:
その後:
除籍:
性能諸元
排水量: 常備:3,660トン
満載:4,270トン
全長: 118.3m
水線長: 117.9m
全幅: 13.5m
吃水: 5.53m~5.54m
機関: シュルツ・ソーニクロフト海軍型石炭専焼水管缶12基+直立三段膨張式レシプロ機関2基2軸推進
最大出力 16,350hp
最大速力: 24.0ノット
航続距離: 12ノット/3,760海里
乗員: 360名
兵装: 10.5cm(40口径)単装速射砲10基
5.2cm(55口径)単装速射砲8基、
45cm単装魚雷発射管2基
装甲: 甲板:30mm(最厚部)
司令塔:102mm(最厚部)

エムデン(SMS Emden)(初代)は、ドイツ帝国海軍ドレスデン級小型巡洋艦の1隻。艦名はエムス川沿いにあるドイツの都市、エムデンに由来する。第一次世界大戦において、主にインド洋方面で通商破壊戦を行い、冒険的な行動を取り、耳目を集める戦果を挙げたことで知られる。オーストラリア海軍の軽巡洋艦「シドニー」に撃沈されるまで、戦果として、30隻を越える連合国商船・艦船を撃沈または拿捕した。

初期の艦歴

エムデンは1906年4月6日にダンチヒ工廠で起工、1908年5月26日に進水し、1909年7月10日に就役した。その建造費は680,000 マルクに上り、同海軍にとっては最後のレシプロ機関艦であった。姉妹艦の「ドレスデン」は直結タービンを使用していた。燃料は石炭であった。

1910年4月1日にエムデンは東アジア巡洋艦戦隊に加わり、ドイツの植民地があった中国・山東省の青島(チンタオ)基地に配備された。以降、エムデンはドイツ本国に帰還していない。そこにおいては、優雅な外観から「東洋の白鳥」との愛称で呼ばれた。

エムデンの初の任務は、カロリン諸島のドイツ植民地・ポナペ島における反乱(ソケースの反乱)の鎮圧であった。防護巡洋艦「ニュルンベルク」とともに反乱勢力の拠点を10.5cm主砲による艦砲射撃を行った後、陸戦隊を編成・上陸させ、拠点を制圧した。

1913年5月に、カール・フォン・ミューラー中佐(1873年6月16日生)を艦長として迎えた。ミューラー艦長は騎士道精神にあふれた人物であり、それは後の戦闘などにおいて証明された。

ミューラー着任の数ヵ月後、エムデンは揚子江沿いの中国人の暴動を鎮圧するように命じられた。1913年8月にイギリス及び日本の艦艇と合流し、暴動勢力を制圧した。

初期の戦闘

ファイル:Cruise of the Emden 1914 Map.png
撃沈されるまでのエムデンの航海図。

ミューラー艦長は、海軍史の熱心な研究家であり、日露戦争において、日本軍がロシアの旅順艦隊を旅順港に封じ込め、最終的に全滅させたことを良く知っていた。そのため、ヨーロッパより戦争の危機とのニュースが届くと、ロシア艦隊の轍を踏まないことを留意し、出航準備を整えた1914年7月31日には青島を出港した。8月2日に洋上において、第一次世界大戦勃発・ドイツの対ロシア宣戦布告の報を受けた。

ファイル:StateLibQld 1 55044 Cormoran (ship).jpg
写真は砲艦「コルモラン」。
ファイル:SMS Cormoran (1909).jpg
本艦に鹵獲されたロシア貨客船「リャザン」改め仮装巡洋艦「コルモラン」。グアムにて撮影

だが、8月4日に対馬海峡において、ウラジオストクに向かっていたロシアの貨客汽船「リャザン(3,500トン)」を拿捕し、ともに青島へ回航、8月6日に入港した。その後、外洋航行能力に乏しい砲艦「コルモラン(SMS Cormoran)」から主砲の4.1インチ砲8門を初めとして武装を移されたリャザンは補助巡洋艦「新コルモラン(en:SMS_Cormoran)」として東洋艦隊で運用された。なお、武装を移して戦闘能力の無くなった旧コルモランは、鹵獲を防ぐために自沈処分された。

その頃、青島のドイツ植民地(膠州湾租借地)は、イギリス・ロシアなどの連合国によって包囲される恐れがあった。青島は良港であり、連合国はその港湾機能を欲していた。ミューラー艦長は、連合国の攻勢を予測するとともに、青島が長期の攻勢に耐えられないことを認識していたため、8月7日夕刻には僚艦とともに出港、ポナペに在泊中であったシュペー提督率いるドイツ・東アジア巡洋艦戦隊との合流を急いだ。

8月12日に、パガン島にて東アジア巡洋艦戦隊の主力との合流に成功する。シュペー提督はエムデンに戦隊に留まる事を求めたが、ミューラー艦長はインド洋方面において、通商破壊戦を行う事を進言し、単独で行う事を条件に、それは認められた。艦隊は8月13日夜にパガン島を離れた。8月14日、エムデンは東へ向かう艦隊と別れ、石炭を積んだHAPAGの汽船マルコマニアとともに南西へと進路をとった[1]。エムデンはアンガウル島へと向かい8月19日に到着、そこでマルマコニアから石炭の補給を行った[2]。またそこで、北ドイツロイドの郵便船プリンツェシン・アリスから日本がドイツに最後通牒を突きつけたことを知らされた[3]。8月20日、旧式巡洋艦ガイエルの電波を受信[4]。エムデンはその発信地点へ向かって8月21日にガイエル、石炭運搬船ボックムと短時間会合し、それからモルッカ海峡へと向かった[5]。8月22日に海峡に入り、翌日日本の汽船と遭遇[6]。その日は日本の最後通牒の回答期限であったが、ドイツが何らかの交渉などを行っている可能性を考えミュラーはこの船を見逃した[7]。エムデンはティモール島へ向かい、会合予定であった石炭船タンネンフェルツが発見できなかったため、24日に再びマルコマニアから石炭を補給した[8]。翌日には日本の宣戦布告を放送で聞き、8月27日に石炭運搬船オッフェンバッハとの会合のためタナ・ジャンピア島の湾に入った[9]。そこで中立国オランダの軍艦トロンプに遭遇し、オッフェンバッハは領海外へ送り返されたことを知らされた[10]。オランダは3ヶ月につき24時間のみ領海内での給炭を認めていた[10]。エムデンはすぐにそこを離れた[11]。ミュラーはインド洋へのルートとしてロンボク海峡を選び、エムデンは8月23、24日夜に無事に海峡を通過した[12]

インド洋での活動

1914年9月中に、エムデンは主にベンガル湾で中立国のイタリア・ノルウェー各一隻を含む17隻の船を拿捕した。拿捕した殆どのイギリス船舶は艦砲もしくは爆薬の設置により撃沈されたが、石炭輸送船はエムデンでも石炭を使う為に引き連れ、一部の船舶は拿捕の後、捕虜となった船舶乗員を乗せ、解放された。ミューラー艦長の行動は戦時国際法に則った紳士的な振る舞いであり、船舶乗員は丁重に扱われた。

9月3日、石炭補給のためエムデンはシムルー島沖に到着[13]。翌日、島の湾内に入りマルコマニアからの補給を開始した。[14]。ここでは補給船ウルムが来ているはずであったがその姿はなかった[14]。翌日オランダ船が現れて24時間超過のため出港を要求し、エムデンは島を離れた[15]。9月9日、中立国のギリシャ貨物船ポントポラスを発見[16]。ポントポラスがイギリス軍用の石炭を運んでおり、交渉の結果船長はドイツの傭船となることを了承した[17]

エムデンはコロンボ・カルカッタ航路へ向かい、9月10日にはイギリス船インダスを停船させその搭載物資を移載後沈めた[18]。翌日にもイギリス船ローバットを発見し、沈めた[19]。カルカッタへ向かったエムデンは9月12日にはアメリカ向け貴重品を載せたイギリス船カビンガとイギリス石炭運搬船キーリンを停船させ、キーリンは食料が運び出された後13日に沈められた[20]。9月13日にも紅茶を積んだイギリス船ディプロマットを沈めた[21]。9月14日、沈められた船の乗組員がカビンガで解放された[22]。またこの日石炭運搬船トラボックとイギリス貨物船クラン・マゼソンを沈めた[23]。これらの間に出会ったイタリア船ロダリノや、解放したカビンガにより存在が知られたため、エムデンのカルカッタ沖での行動は終了した[24]

9月16日、エムデンはアンダマン諸島でポントポラスから石炭を補給し、その後低速のポントポラスは単独で会合場所へと向かわせた[25]。エムデンはラングーン沖へと向かい、ノルウェー船ドヴレを発見[26]。この船によってクラン・マゼソンの乗組員が解放された[27]

エムデンによる通商破壊はインド洋の連合軍通商航路に大きなパニックを巻き起こした。商船の戦時保険料が急騰し、多くの船舶が出港を見合わせた。これはたった一隻の巡洋艦による影響としては大きなものであった。

マドラス砲撃

ファイル:Bombardment of Madras by S.S. Emden 1914.jpg
本艦の砲撃により炎上するマドラス港。(1914年撮影)

続いてエムデンは西へ向かい9月22日にマドラスを砲撃した。エムデンは17時にマルコマニアを分離すると4本煙突に擬装して17ノットで目標へ向かった[28]。擬装用の煙突はエムデンが2本煙突なのに対してイギリス巡洋艦が2本または4本煙突であることから用意されたもので、イギリス巡洋艦ヤーマスのものに似せて作られていた[29]。21時45分には海岸から2800から3000メートルに接近し、停止すると砲撃を開始した[30]。エムデンは最初は砲台を砲撃し、それから石油タンクを砲撃して炎上させた[31]。砲台からの反撃もあり、9発が発射されたもののエムデンに命中はしなかった[32]。125から130発を発射するとエムデンは砲撃をやめ、航海灯をつけたまま北へ向かい、陸が見えなくなると明かりを消して南へ向かった[33]。砲撃により35万ガロンの燃料油が焼失し、港湾施設の多くが破壊された[34]。マドラスの人的被害は少なかったが、油貯蔵地区では4人が死亡[34]。また被弾した船でも一人が死亡し、それはエムデンの攻撃で死亡した唯一の商船乗組員であった[34]。この攻撃は市民に大きな心理的影響を与え、イギリスの権威を失墜させた[35]。多くの人々が更なる攻撃を恐れて逃げ出した[34]

砲撃翌日にエムデンはマルコマニアと合流し、ミュラーはベンガル湾を離れて西へ向かうことに決めた[36]。9月25日にセイロン島に接近したエムデンはイギリス貨物船キング・ラットを発見して沈め、次いでコロンボ・ミニコイ間の航路へと向かって砂糖を積んだイギリス船タイメリックを沈めた[37]。この後も9月26日にイギリス船グリフベイルを、27日に石炭を積載したイギリス船ブレスクを捕らえ、28日にはイギリス船リベラ、フォイルを沈めた[38]。沈めた船の船員をグリフベイルで解放するとエムデンはモルディブ諸島へ向かい、そこで石炭の補給を行った[39]。補給後、マルコマニアにはポントポラスと会合して石炭を移載し、それから港に入って食料を購入し、エムデンと会合するよう指示した[40]。しかし、マルコマニアは10月12日にイギリス巡洋艦ヤーマスに発見され自沈している[41]。エムデンはマルコマニアと分かれるとチャゴス諸島へと向かった[42]。10月9日にディエゴガルシアに到着し、ブレスクから石炭を補給[43]。ミュラーは次はペナンへ向かおうとしていたが、コロンボ・アデン航路の安全の問い合わせに対してエムデンはすでにこの海域にはいない、と返答されているのを傍受し、北上することにした[44]。途中の島で再度石炭補給を行い、ミニコイへ向かったエムデンは10月15日にイギリス貨物船クラン・グラントを捕らえ、食料などを確保して翌日沈めた[45]。10月16日には浚渫船ポンラベルとイギリス貨物船ベンモーを沈めた[46]。さらに翌日にはイギリス貨物船トロイラス、中立国アメリカの貨物を積んだイギリス船セント・エグバートと石炭運搬船エクスフォードを、10月19日にもイギリス船チルカーナを拿捕した[47]。豪雨のためセント・エグバートが一時行方不明になるという出来事もあったが、10月19日にトロイラスとチルカーナを沈め、船員をセント・エグバートで解放し、エムデンはこの海域を離れた[48]

ペナン攻撃

ファイル:Mousquet-Bougault.jpg
本艦の砲撃により撃沈されたフランス駆逐艦「ムスケ」

その後、エムデンはイギリス領マレーのペナンに向かった。10月28日未明、4本煙突のイギリスの巡洋艦に偽装して港へ接近、港内に侵入後にドイツ軍旗(戦闘旗)を掲揚して攻撃を開始した。まず日本海海戦にも参加したロシア帝国の旧式小型防護巡洋艦ジェームチュク」に射距離300mから魚雷を発射して命中させ、撃沈する。港内にいたフランス軍駆逐艦3隻は反撃を試みたものの、エムデンに命中弾を与えることができなかった。ペナン港を去るにあたりエムデンは「我、今、ペナンを去らんとす。用無きや?エムデン」と皮肉とユーモアをこめた無電を発している。さらにエムデンはペナン港外に離脱した後、イギリス商船「グレンターレット」に遭遇。これを拿捕しようとしたとき、ペナンへ向け航行中のフランス駆逐艦「ムスケ」に発見され、戦闘となったが、エムデンは砲撃によりムスケを撃沈している。

撃沈

ファイル:SMS Emden wreck.jpg
戦闘後のエムデン

この時点で、累計70隻以上の連合軍の艦船が、インド洋でエムデンの捜索に向けられていた。その頃、イギリスの洋上無線の基地は、ココス諸島ディレクション島に設置されていた。ミューラー艦長は、この基地の破壊を計画し、1914年11月9日朝にディレクション島に到着した。艦の乗員約50名で、陸戦隊を編成し、島に上陸した。同島の住民は抵抗せず、エムデンの陸戦隊も住民の「ラジオタワーをテニスコート方向に倒さないで欲しい」との要望に同意した。

エムデンにとって不幸なことに、陸戦隊の上陸直前に、ディレクション島の無線基地は、不審な艦影の発見により、緊急電報を発信していた。このとき偶然、オーストラリアの軽巡洋艦「シドニー(排水量5,400トン、15.2cm砲8門)」や「メルボルン」、日本の巡洋戦艦「伊吹」などが船団を護衛し、島から80km、時間にして2時間の地点を航行中であった。6時55分、シドニーがディレクション島へ急行を開始した。

ファイル:Emden wreck 1915.jpg
艦首から撮られた戦闘後のエムデン。本艦の10.5cm砲は第一次大戦のレベルでは能力不足であった。

シドニーの接近を見たミューラー艦長は、汽笛により陸戦隊の帰還を呼びかけるも間に合わず、抜錨し、戦闘準備を行う。9時40分にエムデンは砲撃を開始し、シドニーも反撃を行った。シドニーはエムデンより大型・優速であり、主砲の口径も10.5cm砲のエムデンよりも15.2cm砲は射程が長く優越していた。また、シドニーは水線部と甲板に防御を持つのに対しエムデンの装甲は30mmと薄い上に甲板部しか防御されない上に、長期の航海により各所に状態の思わしくない箇所を抱えていた。砲撃戦は1時間半ほど続き、シドニーの砲撃によりエムデンは主砲、射撃指揮所などに大きな損害を受けた。ミューラー艦長は損傷したエムデンの沈没を避けるため、11時15分、北キーリング島に故意に座礁させた。シドニーは、付近にいた補給船ブレスクを捕捉するために一時エムデンから離れたが、ブレスクが自沈した為に、16時にエムデンの側に戻った。シドニーは、エムデンに戦闘旗が掲揚されているのを発見すると、砲撃を再開する。エムデンは急いで戦闘旗を降ろし、白旗を掲げ降伏した。翌10日に艦長を初めとするエムデンの乗員は収容され捕虜となった。エムデンの乗員は武装を解かれたが、エムデンの勇猛さに敬意を表してミューラー艦長以下の士官たちは帯剣を認められたという。

その後

ファイル:SMS Emden SLV AllanGreen.jpg
残骸となったエムデン
  • ディレクション島を襲撃したミュッケ大尉以下の陸戦隊は、砲撃戦の隙を突き、島にあった帆船で脱出。途中でドイツの商船に拾われてインド洋を横断し、イエメンに上陸した。ラクダや船を乗り継いで、アラブ遊牧民ゲリラと交戦したりしながらアラビア半島を北上し、ダマスカスを経由して同盟国であるオスマン帝国のコンスタンチノープルに辿り着いた。同所から鉄道でベルリンに向かい、1915年5月に42名が本国に帰還している。
  • 随伴した補給艦マルコマニアもシドニーにより撃沈されている。
  • ミューラー艦長はマラリアの再発により1923年に死亡した。
  • エムデンの残骸は、しばらく放置されていたが1950年に解体された。
  • 初代のエムデンが1914年に撃沈された後、1916年に二代目のエムデンが建造されたが、1919年に他のドイツ帝国海軍艦船とともにスカパ・フローで自沈した。
  • 1921年には、第一次世界大戦後初めてドイツ海軍が建造した軍艦として三代目のエムデンが起工され、1925年に就役し第二次世界大戦で活躍した。

脚注

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参考文献

  • R・K・ロックネル、『エムデンの戦い』、難波清史 訳、朝日ソノラマ、1994年、ISBN 4-257-17260-6
  • Keith Yates, Graf Spee's Raiders Challenge to the Royal Navy, 1914-1915, Naval Institute Press, 1995, ISBN 1-55750-977-8

他の文献

  • Fred McClement : 『軍艦エムデン 死闘の記録』、南波 辰夫訳、朝日新聞社、1972年
  • 『世界の艦船 別刊 ドイツ巡洋艦史』、海人社、2002年

関連項目

外部リンク


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  1. エムデンの戦い、73-74ページ
  2. エムデンの戦い、75、77ページ
  3. エムデンの戦い、80ページ
  4. エムデンの戦い、82ページ
  5. エムデンの戦い、82、84-85ページ
  6. エムデンの戦い、86-87ページ
  7. エムデンの戦い、87ページ
  8. エムデンの戦い。88ページ
  9. エムデンの戦い。90ページ
  10. 10.0 10.1 エムデンの戦い、91ページ
  11. エムデンの戦い、92ページ
  12. エムデンの戦い、93-94ページ
  13. エムデンの戦い、99ページ
  14. 14.0 14.1 エムデンの戦い、101ページ
  15. エムデンの戦い、102-103ページ
  16. エムデンの戦い、103-104ページ
  17. エムデンの戦い、104-105ページ
  18. エムデンの戦い、105-110ページ
  19. エムデンの戦い、112-113ページ
  20. エムデンの戦い、115-117ページ
  21. エムデンの戦い、117-118ページ
  22. エムデンの戦い、121ページ
  23. エムデンの戦い、121-123ページ
  24. エムデンの戦い、124ページ
  25. エムデンの戦い、125、129ページ
  26. エムデンの戦い、130-131ページ
  27. エムデンの戦い、131ページ
  28. エムデンの戦い、134ページ
  29. エムデンの戦い、93、97ページ
  30. エムデンの戦い、134-135ページ
  31. エムデンの戦い、135ページ
  32. エムデンの戦い、136ページ
  33. エムデンの戦い、136-138ページ
  34. 34.0 34.1 34.2 34.3 Graf Spee's Raiders, p.65
  35. エムデンの戦い、136ページ
  36. エムデンの戦い、141ページ
  37. エムデンの戦い、142-143ページ
  38. エムデンの戦い、145-150ページ
  39. エムデンの戦い、150-151ページ
  40. エムデンの戦い、152ページ
  41. エムデンの戦い、334ページ
  42. エムデンの戦い、153ページ
  43. エムデンの戦い、154、156-157ページ
  44. エムデンの戦い、157ページ
  45. エムデンの戦い、159-160、162ページ
  46. エムデンの戦い、161-162ページ
  47. エムデンの戦い、163-166ページ
  48. エムデンの戦い、165-169ページ