エッフェル塔

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ファイル:Blue Eiffel Tower with blue sky.jpg
青いエッフェル塔(フランス欧州連合理事会議長国が始まった時:2008年7月)
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エッフェル塔の建設

エッフェル塔(エッフェルとう、テンプレート:Lang-fr-short)は、フランスの首都パリの象徴的な名所となっているである。パリ7区シャン・ド・マルス公園の北西に位置する。

経緯

フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されるべくコンペティションが開かれた。ここで、ギュスターヴ・エッフェルほか2者の案が採用になった。設計者がステファン・ソーヴェストルモーリス・ケクランとされたり、エッフェルは工事を請け負ったにすぎないとされたりするが、当時ソーヴェストルとケクランは、2者ともエッフェル社の社員で、エッフェルとともにコンペに参加していた。最終的にはエッフェルが著作権者となり、この塔の名前の由来になった。

1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴエストル、ケクランらの設計図であった。満場一致の採択であり、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に十分適うのはエッフェル塔のみと思われる」であった。こうしてエッフェル塔建設が始まる。

建設は万博に間に合わせるため、2年2か月という驚異的な速さで行われ、1人の死者も出さなかった。総工費は650万フランであった[1]

建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、1930年ニューヨーククライスラービルが完成するまでは世界一高い建造物であった。現在は放送アンテナが設置されたため、324mとなっている。展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。製ではなく錬鉄製の塔である[2]。塔の支点の下には、水平に保つためのジャッキがある。

あまりに奇抜な外見のため、建設当時は賛否両論に分かれた。1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出している[3]。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが[4]、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。

なお万博後には来訪者も減ったことや、当初の契約から1909年には解体されようとしていたが、のちに、軍事用の無線電波をエッフェル塔から送信することになり、そのため国防上重要な建築物ということで、現在に至るまで残っている。

現在では、パリを代表するシンボルとなっている。1991年、この塔を含むパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録された。1889年の完成から2006年までに、2億人以上の観光客がエッフェル塔を訪れた[5]。この数字は、2006年に塔を訪れた6719200人を含んでいる[6]。エッフェル塔は、世界でもっとも多くの人が訪れた有料建造物である[7]

関連人物

  • モーリス・ケクラン
    23歳でエッフェル社鉄骨構造物研究部長となり、技師のエミール・ヌーギエや、建築家のステファン・ソーウェストルとともに、エッフェル塔の設計案や鉄骨構造の計算に協力した。また、エッフェルのあとを継いで、ルヴァロワ・ベレ鉄骨構造物建設会社社長、エッフェル塔会社社長に任命された。ケクランが手がけたエッフェル塔設計図面は、母校のチューリッヒ工科学校ETHに飾られている。
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  • ステファン・ソーヴェストル
    1846年生まれ。1868年、エコール・デ・ボザール建築科卒業。翌年、モン・サン=ミッシェル修道院建築に関する研究で受賞(シャルル・アルペール・ゴーティエと共同研究)。22歳でプレスト劇場改造の監督に任命され。次第に建築家として認められるようになる。パリの新開地プレーヌ・モンソ一地区に、多数の別荘や邸宅を建設。エッフェルとの最初の仕事は、1878年万博のガス・パビリオンの建造だった。のちエッフェル社の建築部長となり、モーリス・ケクランやエミール・ヌーギエらと協力して、エッフェル塔の設計監理に従事。その後、ムニエ一家をパトロンとして建築作品を残す。1905年には、ノワジエルのチョコレート工場近代化に貢献。1919年死去。

エッフェル塔をめぐる論争

先に述べた通り、エッフェル塔は建設当時その奇抜な外観から批判を受けた。特に芸術家からの批判が多く、1887年2月14日の「ル・タン(Le Temps)」紙には芸術家たちの抗議声明が掲載された。著名な署名者には、エルネスト・メソニエ(画家)、ウィリアム・ブーグロー(画家)、シャルル・グノー(作曲家)、シャルル・ガルニエ(建築家)、アレクサンドル・デュマ・フィス(作家)、ルコント・ド・リール(作家)、ギー・ド・モーパッサン(作家)らがいる。以下はその文書の一部である。

「われわれ作家、画家、彫刻家、建築家ならびに、これまで無傷に保持されてきたパリの美を熱愛する愛好家たちは、わが首都の真ただ中に、無用にして醜悪なるエッフェル塔、良識と正しい理性を持つ辛酸なる大衆の多くがすでに「バベルの塔」と名指したエッフェル塔の建築に対し、無視されたフランスの趣味の名において、また危機に瀕したフランスの芸術と歴史の名において、あらん限りの力と憤りを込め、ここに抗議するものである。
われわれはいたずらな愛国主義に陥る事なく、パリは世界に並ぶ物のない街である事を高らかに宣言する権利を有する。(中略)
エッフェル塔が、黒く巨大な工場の煙突のごとく、目が眩むような馬鹿げた塔がパリを見下ろし、野蛮な塊でノートルダムサント・シャペルサン・ジャックの塔ルーヴル宮廃兵院のドーム凱旋門といった建築を圧倒し、われらがすべての記念建造物を辱め、すべての建築を矮小化して、唖然とさせるような夢幻の中に消滅せしめることを想像すれば、われわれの主張を納得するに十分である。これから20年間ものあいだ、幾世紀も前からその精気を沸き立たせてきたパリ市全域に、ボルト締めされた鉄製の醜悪な円柱の影が、まるでインクのシミのように長々と横たわるのを見る事になるだろう。パリを愛しその美化に努め、行政の手になる破壊や産業界の蛮行から幾度もこれを守ってきた皆さん、皆さんこそは今一度、このパリを守る栄誉の担い手なのです。」

これに対し、ギュスターヴ・エッフェルは、これから建設されるエッフェル塔を芸術的な観点と実利的な有用性の側面から同紙にて反論している。以下はその文書の一部である。

というものに独特の美がある。われわれ技師が、建築物の耐久性のみを考え、優美なものを作ろうとしていないと考えるのは誤りである。この塔について考慮したのは風圧に対する抵抗である。巨大な基礎部分から発している塔の四つの稜曲線は、塔の頂点にいくに従って細くなっているが、そこには力強い美しさが感じられると思う。(中略)
今回の塔は人類史上最高の建造物なるであろう。壮大なものだ。エジプトで讃えられているものが、なぜパリでは醜悪だと言われるのか理解できない。」

また、塔の有用性に関しては以下のように述べている。

「塔は、天文気象物理観測研究に寄与するものとみられるし、戦時には監視塔として役立つ。つまりこれは、今世紀における工業技術の進歩輝かしく証明するものとなろう。われわれの時代になって初めてかなり精密にを加工できるようなったことで、かくも大きな事業が実現されるのである。この現代科学の精華といえるものが、パリ市内に聳えたつことがパリの栄光と無縁だというのであろうか。」

その他

  • エッフェル塔自体の著作権は、既にパブリックドメインに属しているが、2003年に施されたライトアップ装飾によって「エッフェル塔に新たな創作性が付与された」と解釈され、2005年2月2日に改めてパリ市が著作権を取得した。このためライトアップされた夜景の映像を許諾無しに公表すると著作権侵害となってしまう。日本ではこのような規制はない。
  • エッフェル塔内部にはパリの景色を一望できるレストランが開業している。特に有名なのが、ミシュランガイドでも1つ星を獲得したことのある「ジュールベルヌ」である。
  • エッフェル塔は自殺の名所でもあり、毎年多数の人が飛び降りている。現在でも、展望台は簡単な柵あるいは金網が設置されているだけの吹きさらしである。1912年にはエッフェル塔最古の事故死記録映像が撮影された。(参考:フランツ・ライヒェルト
  • チャールズ・リンドバーグの「翼よ、あれがパリの灯だ」という名言の「パリの灯」とは、1925年から1936年まで自動車メーカーのシトロエンがエッフェル塔に掲げていた巨大な電飾広告の事だと言われることもあるが、「翼よ、あれがパリの灯だ」という台詞は日本でのみ人口に膾炙している後世の脚色である(リンドバーグの項を参照)。
  • エッフェル塔に「正面」はない(東京タワーにはある)。
  • 2011年12月に日刊紙フィガロで、建築家グループが期間限定で塔を樹木で覆う緑化計画を立てていると報道された。ただしパリ市や塔運営会社は否定している[8]

交通アクセス

ギャラリー

参考文献

  • 『エッフェル塔ものがたり』倉田保雄著 岩波新書
  • 『エッフェル塔試論』松浦寿輝著 筑摩書房
  • 『フランス表象文化史 美のモニュメント』和田章男著 大阪大学出版会

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 「国民百科事典1」平凡社 p423 1961年2月1日初版発行
  2. テンプレート:Cite book
  3. 「パリ風俗史」p331-332 アンドレ・ヴァルノ著 北澤真木訳 講談社 1999年11月10日第1刷
  4. テンプレート:Cite book
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Cite web