ノートルダム大聖堂 (パリ)

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パリのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris、ノートルダム寺院とも) はゴシック建築を代表する建物であり、フランスパリシテ島にあるローマ・カトリック教会大聖堂。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコ世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。

建物

ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年

建造の経緯

  • 1163~1177 内陣の建造(1182奉献)
  • 1180~ 身廊(五廊式)の建造
  • 1196 司教モーリス・ド・シュリー死去、西側の梁間を除き、ほぼ完成
  • 1200~ 後継者ユード・ド・シュリーによる、西正面ファサードの建造
  • 1220 「王のギャラリー」の層まで
  • 1225 バラ窓の層まで
  • 1240 北塔(高さ地上63m)
  • 1250 南塔、全面完成 

全長127.50m、身廊の高さは32.50m、幅は12.50mと、それまでにない壮大なスケールの大聖堂が完成した。

1789年に始まったフランス革命により他の教会同様にノートルダム大聖堂も襲撃を受け、大聖堂を飾っていた歴代の王の彫像が破壊されて埋められた。この彫像群は1977年に工事の際偶然発見され、現在では近くにあるクリュニー中世美術館に展示されている[1]

ファサードを装飾する彫刻、屋根の塔、その他多くの部分は、19世紀のゴシック・リヴァイヴァル期にウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって大幅に改装されたものである。1831年ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(「ノートルダムのせむし男」)の舞台になった。

壁面構成

下方から、大アーケード、トリビューン(階上廊)、高窓の3層構造となっている。水平的分割線が見られず、分断されることなく上昇する小円柱群が目立ち、垂直線が強調されている。 初期ゴシック建築では、4層式(大アーケード、トリビューン、トリフォリウム、高窓)が一般的であった。そのため、ノートルダム大聖堂も創建当初は4層構成にされており、トリビューンと高窓の間にもう一つの層があった。しかし、ノートルダム大聖堂の場合、左右の側廊が二重で五廊式バシリカ形式であるため、中央身廊部に十分な光が入ってこなかった。そのため13世紀初め、外光をより取り入れるために、高窓部分を拡張し、3層構成に改造された。 こうして、13世紀の大聖堂では例外的に、トリビューンを残し、採光のため高窓を下の層まで大きく伸ばし中間層が取り除かれた構造となった。側廊が二重にされ、またトリビューンもあえて残されたのは、多くの人びとを収容したいという思いからだと考えられている。実際に、大聖堂内には9000人をも収容でき、トリビューンには1500人もの人々が昇れるようになっている。

修復

ファイル:Notre Dame Paris front facade lower.jpg
夜の大聖堂のファサード。上部にユダヤとイスラエルの王28名の彫像が並ぶ。左側から聖母マリア、最後の審判、聖アンナの門となる。

1789年フランス革命以降、自由思想を信奉し宗教を批判する市民により、大聖堂は「理性の神殿」とみなされ、破壊活動、略奪が繰り返されていた。1793年には西正面の3つの扉口および、王のギャラリーにあった彫刻の頭部が地上に落とされた。ノートルダムの歴史を語る装飾が削り取られ、大聖堂は廃墟と化した。

その後、ヴィクトル・ユーゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』の出版が、国民全体に大聖堂復興運動の意義を訴えることに成功し、1843年、ついに政府が大聖堂の全体的補修を決定した。1844年、ジャン・バティスト・ アントワーヌ・ラシュスとウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクに委任が決まり、1845年に修復が開始された。 大規模な修復の一つが、大聖堂の交差部にあった尖塔の復元である。この尖塔は落雷でたびたび炎上し、倒壊の危険があるため1792年に一時撤去されたが、ヴィオレ・ル・デュクらが修復に乗り出した。ヴィオレ・ル・デュクによる尖塔の復元案は、全体の高さを以前よりも約10m高く設定し、デザインもより豊かなものとなった。さらに、最も大きな変更として、尖塔基部を囲んで福音史家と十二使徒の彫刻が付加された。ヴィオレ・ル・デュクは聖トマ像のモデルとなり、自らデザインした尖塔を見上げるポーズを取っている。

1857年、共同修復者のラシュスが死去。その後はヴィオレ・ル・デュク単独の作業となった。ヴィオレ・ル・デュクは、1330年のノートルダム大聖堂を想定し、その完全なる復元に努めた。1864年に修復は完了した。

出来事

その他

パリから各地への距離を表すときの起点はノートルダム大聖堂の前が起点となっている。


関連項目

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外部リンク

参考文献

  • 馬杉宗夫2002『パリのノートルダム』八坂書房
  • 羽生修二1992『ヴィオレ・ル・デュク [歴史再生のラショナリスト] 』鹿島出版会

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