エイレーネー

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エイレーネーを描いた『黄金の祭壇画』。ヴェネツィア、10世紀の作

エイレーネー“アテナイア”ギリシア語Ἐιρήνη ἡ Ἀθηναία, Eirēnē hē Athēnaiā752年 - 803年8月9日)は、東ローマ帝国イサウリア王朝の第5代皇帝(在位:797年 - 802年)。同王朝第3代皇帝レオーン4世皇后で、第4代皇帝コンスタンティノス6世の生母。ローマ帝国史上初の女帝である。正教会では聖人。中世ギリシア語読みでは「イリニ」で、「平和」の意である。渾名の“アテナイア”は「アテナイ人」の意であり、生地がアテナイであったことによる。

即位

780年、夫レオーン4世が死去したため、その間に生まれたコンスタンティノス6世がわずか10歳で即位することとなった。しかし10歳の幼帝に政治を執りしきることができるはずもなく、エイレーネーが摂政に就任して政治を執りしきることとなった。

シリア出身のイサウリア王朝の諸帝はイコノクラスムを推し進めてきたが、かつてのギリシア古典文化の中心地アテネの出身であったエイレーネーはイコノクラスムに反対であり、夫を懐柔して破壊政策を緩和してきた。また、彼女が主宰して開いた787年第2ニカイア公会議でも聖像敬拝の復活を議決している。このことによって、息子の目をつぶして帝位を簒奪したのにもかかわらず、エイレーネーは教会から聖人に認定されている。

コンスタンティノスが長ずるにつれ彼女の意に沿わなくなり、母子の仲は徐々に険悪になっていった。いったんはコンスタンティノスが実権を掌握したものの、ブルガリア遠征の失敗などから人望を失った。797年、エイレーネーは軍を動かしてコンスタンティノス6世を捕らえ、実子であるコンスタンティノスの目をくりぬいた上で追放し[1]、7月17日、自ら女帝として即位した。

政策

以上のような即位の経緯から、エイレーネーには必ずしも人望があるわけではなかった。人望を得るために大幅な減税政策を採用したが、これがかえって帝国財政の破綻を招く結果となってしまった。

さらにイコン破壊派であったテマの長官を廃するなど、イコン破壊派に対して徹底的な弾圧を行なったため、帝国軍の弱体化を招いてしまう。このため、アッバース朝(当時は第5代カリフハールーン・アッ=ラシードの下で全盛期を迎えていた)の小アジア侵攻を許すことになり、帝国領は次第に削られていった。

また、ローマ教皇レオ3世は「コンスタンティノス6世の廃位によって正統なローマ皇帝は絶えた」と解釈し、エイレーネーの即位を無効としてローマ皇帝は空位の状態にあるとみなした。そして、800年サン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサの際、フランク王国の国王カールを「ローマ皇帝」として戴冠した[2]。これによって、従来ローマ帝国の唯一の継承者を自認してきた東ローマ帝国の威信は、大きく傷つけられることになってしまった。

このように失政を続けたエイレーネーは802年、財務長官ニケフォロスの宮廷クーデターによって廃位され、イサウリア朝は断絶した。こののち、ニケフォロスはニケフォロス1世として即位し、アモリア王朝が始まった。

脚注

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  1. ローマ皇帝の即位の条件には「五体満足でなければならない」という不文律があった。このため、二度と帝位に就けないように、失脚した皇帝の目を潰したり、鼻や耳などを削いでしまうという残酷な処罰が行なわれることがあった。なお、コンスタンティノスは、この傷がもとで同年8月15日に死亡している。
  2. 古代ローマ時代から女性がローマ皇帝になったことはなく、女帝は西方には認められていなかった。エイレーネーもこれを意識しており、自らを「バシリサ(英語で言う"empress", 皇后あるいは女帝)」ではなく男性形で「バシレウス(皇帝)」と名乗った。また、カール大帝とエイレーネーの再婚話やカールの娘とコンスタンティノス6世の婚約話もあったというが、いずれも実現せずに終わった。東ローマ帝国は当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、エイレーネー死後の812年に両者の間で妥協が成立し、東ローマはカールの帝位を認め、その代わりカールは南イタリアの一部と商業の盛んなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。また、フランク王国と東ローマ帝国の関係が悪化したとき、カール大帝はハールーン・アッ=ラシードと提携して対抗しようとしている。「シャルルマーニュの護符」はこのとき、ハールーン・アッ=ラシードより贈られたものと言われる。