インド国民軍

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テンプレート:Infobox War Faction インド国民軍(インドこくみんぐん、Indian National Army、略号:INA)は、太平洋戦争大東亜戦争)中に日本軍の支援によって設けられた、英印軍捕虜の転向者を中心としたインド人部隊。

当初は日本軍がマレー作戦を優勢に進めるための補助戦力としてゲリラ部隊的な色彩も強かったが、インド独立運動の英雄の1人であるスバス・チャンドラ・ボースが訪日し、イギリス領インド進攻作戦が具体的に検討され始めてから次第に重装備化され、本格的な軍隊となった(現地で工作に当たったF機関インド独立を本気で考えていたが、大本営の南方作戦には当初はインド攻略が含まれていなかった)。

歴史

インド国民軍(INA)の結成

日本の参謀本部1941年7月ごろから対英戦争の勃発を想定して、マレー半島における英印軍兵士工作に着手した。責任者として指名された藤原岩市は、タイバンコクで極秘にインド独立運動を展開していたインド独立連盟プリタム・シンに接触するとともに、F機関を結成した。

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藤原岩市と握手を交わすモーハン・シン大尉(1942年)

そして太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発とともに、F機関とインド独立連盟もマレー作戦に参加し、英印軍兵士に対する工作活動を展開。マレー半島西岸の街アロールスターで投降してきたモーハン・シン大尉に、投降してきたインド人兵の統括をゆだね、モーハン・シンはいったんは答えを保留したものの、日本軍とインド人兵を対等に扱うことなどを条件にこれを承諾。こうして日本軍はマレーやシンガポールで英軍と戦闘中に捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募って「インド国民軍」を編制した。この軍隊は「白人支配からアジアを解放するための組織」とされた。

さらに参謀本部は、インド国民軍の今後の展開についてインド独立運動家で日本に亡命していた印度独立連盟ラース・ビハーリー・ボースに意見を尋ね、1942年3月に、東京において印度独立連盟を含む在日インド独立運動家とインド独立連盟、インド国民軍(旧英印軍兵士)の代表が会議を行うこととなった(東京山王会議)。

派閥争い

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犬養毅頭山満らと歓談するラース・ビハーリー・ボース

だが、元々「イギリス軍人」として従軍し、「イギリス人である」という意識が強かったモーハン・シンら親英的な一部の旧英印軍兵は、日本などのイギリスの敵国と手を組んだ上で、宗主国のイギリスを打倒し独立することを目指すビハーリー・ボースやA.M.ナイルら在日インド独立運動家を「日本の傀儡に堕する傾向がある」と見なし、在日インド独立運動家も旧英印軍兵内の親英派を「親英的で独立心に欠ける」と見るなど、内部対立が早くも芽生え始めていた(なお、その間に立つことを期待されていたプリタム・シンは、会議に向かう途中に飛行機事故で死亡している)。

6月のバンコク会議においても両者の対立は見られたが、英印軍の大尉でしかなかったモーハン・シンが、その後数千人単位にまで拡大したインド国民軍の統率を執ることが不可能となってきたことや、軍を私物化する傾向を見せたことから、モーハン・シンに対するインド国民軍内の不信と反発が急速に拡大し、最終的にインド国民軍はインド独立連盟(インド独立連盟と印度独立連盟が合流したもの。議長はビハーリー・ボース)の管轄下に入ることとなった[1]

なお、バンコク会議においては、ビルマ国境からインド国民軍をインドに侵入させインド国内の反英運動と共闘する構想や、インド国民軍の地位を日本軍などと同等にすることを要望する宣言も出され、岩畔機関(F機関を発展的に改組したもの。機関長は岩畔豪雄)を通じて日本政府に回答を要求した。だが日本軍はビハーリー・ボースに対して消極的な回答しか示さず、しかも一切の公表を控えるよう要請したため、ビハーリー・ボースと対立していたモーハン・シンら元英印軍の一部はビハーリー・ボースを「日本軍の傀儡」だとインド国民軍内外で喧伝するようになった。

さらに旧英印軍兵士のN・S・ギルがイギリスへのスパイ容疑で逮捕されるという事件が起こると、その極端な言動が嫌われ、もはやインド独立連盟のみならずインド国民軍の旧英印軍兵士内でも孤立していたモーハン・シンと日本軍との関係修復は不可能となった。12月29日に、モーハン・シンはインド独立連盟によってインド国民軍司令官を罷免され、さらにシンガポール島の東北にあるセントジョン島に軟禁された(罷免の原因について、元F機関員の伊藤啓介は、「英印軍内の派閥争い」をその一因として挙げている[2])。

チャンドラ・ボース訪日

しかし、元英印軍士官であったモーハン・シンの罷免を行ったことで、インド国民軍の多くを占める元英印軍兵士の一部からのビハーリー・ボースに対する信頼が低下した上に、心労から病気がちとなったビハーリー・ボースは強い統率力を維持できなくなった。そのために日本軍はビハーリー・ボースの側近でもあったA.M.ナイルの進言を受けて、新たなインド国民軍の指導者として、亡命中のドイツ北アフリカ戦線で捕虜となった英印軍兵士から志願者を募り「インド旅団」を結成し、イギリスに対峙していたインド国民会議派元議長のスバス・チャンドラ・ボースの招聘を計画した。

それ以前にも、日本政府によるチャンドラ・ボースの招聘が検討されたことはあったが、ビハーリー・ボースに対する気兼ねと日独関係への影響を考慮して、これまで来日招聘には消極的であった。しかし、ビハーリー・ボースにその意向を打診したところ、そのころすでに病気がちであった彼自身もチャンドラ・ボースの訪日を強く希望したため、問題はたちまち氷解した。

1943年2月に、チャンドラ・ボースはドイツのキール軍港をドイツ海軍UボートU180」で出発し、途中マダガスカル島沖で日本海軍伊号第二九潜水艦に移乗、4月に日本へ到着する。同年7月4日、シンガポールにおけるインド独立連盟総会において、ビハーリー・ボースはインド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権をチャンドラ・ボースに移譲した。その席上でチャンドラ・ボースは、「まだまだあなたの力を借りたい」とビハーリー・ボースへインド独立連盟の名誉総裁への就任を要請し、2人は壇上で固い握手を交わしたという。

翌日、チャンドラ・ボースは興奮する数万のインド国民軍将兵とインド人大衆を前に、インドの武力解放を熱烈に訴えた。その演説は、「チャロー・ディッリー(चलो दिल्ली:進め!デリーへ)」でしめくくられ、インド人たちを熱狂させた。同年10月に、チャンドラ・ボースはシンガポールに自由インド仮政府を樹立し、その主席に就任し、併せてイギリスとアメリカへ宣戦布告した。

インパール作戦とインド国民軍の降伏

インド国民軍は元捕虜だけでなく、東南アジア在住インド人からも志願者を募ったため、総兵力は約45,000人に達した。そして1944年にはビルマに移動し、「自由インド」「インド解放」をスローガンに、日本軍とともにインパール作戦に参加した。

インパール作戦で当初日本軍はアッサム州(現・ナガランド州)のコヒマを占領し、一旦はインパールに迫るなど進軍を続けた。イギリス第14軍は日本軍の攻撃が始まるとアキャブ方面の第15軍団から2個師団をインパール、ディマプールに抽出し、第33軍団からも第2イギリス師団、第50インド戦車旅団、第14軍予備の第254インド戦車旅団の投入を処置した。同時に第4軍団にはインパールへ後退を命じたが、同軍団の第17師団は日本軍第33師団に退路を断たれて動けず、第50降下旅団はサンジャックで第31師団宮崎支隊に包囲された。マウントバッテン総司令官は3月25日には、戦局不利を認め、ロンドンの統合参謀本部に増援部隊の派遣を要請している。

だが、イギリス軍は当初から日本軍をインパールにひきつけて、補給線が延びきったところを攻撃する計画であり、実際に日本軍は食料や弾薬の補給が続かなかった上に、アメリカから供与された強力な火器を装備するイギリス軍の総反撃を受けて最終的には大敗北を喫した。インパール作戦に参加したインド国民軍は6000人、そのうちチンドウィン川まで到達できたのは2600人(要入院患者2000人)で、その後戦死400人、餓死および戦病死1500人の損害を受けて壊滅している。

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マハトマ・ガンディー(左)とボース(右)

この作戦は、制空権もない上に補給・兵站の問題を極端に軽視しており、軍内部でも反対論が続出するほどの完全に無謀な作戦であったが、チャンドラ・ボースは「インド独立の絶好の機会」としてその決定を喜んだ。チャンドラ・ボースは、自らがインド領内に進撃すれば、必ずインド人民が決起すると信じていたのである。実際、かつて日本を厳しく非難してきたマハトマ・ガンディーは、日本軍がビルマへ侵入した辺りから、急に日本寄りの発言を繰り返すようになっていた[3]。これについては、非暴力主義者であるガンディー(彼は英仏に対してドイツの侵攻にも非暴力で対応することを求めていた)は、マレーやビルマのようにインドが日英の戦場となりイギリス軍が敗退して日本の占領下となることを恐れて、独立達成後は日本と講和することを考えていたともいわれる[4]テンプレート:誰範囲2

インド国民軍は、その後もイラワジ会戦等で日本軍とともにイギリス軍と戦って敗退したが、アウン・サン率いるビルマ国軍が日本軍から離反すると、日本軍と共にビルマからタイに撤退し、そこで第二次世界大戦の終戦を迎え、インド国民軍はイギリス軍に降伏した。チャンドラ・ボースは、次はソビエト連邦の支援によってインド独立を目指そうとしたが、日本経由でソビエト連邦へ向かうべく移動中に台北で飛行機事故にあい死亡。なおビハーリ・ボースも終戦に先立つ1945年1月21日に日本で客死した。

インド国民軍裁判

終戦後、イギリスは元インド国民軍将兵約20,000人を、イギリス国王に対する反逆罪で裁こうとした(11月5日の発表では起訴の対象は約400名)。しかし、この裁判を機にインド民衆の間に独立の気運が一気に高まった。次々とゼネストや暴動が起きる中、国民会議派も「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者」として即時釈放を要求、1946年2月には英印軍の水兵たちも反乱を起こし、ボンベイカラチカルカッタで数十隻の艦艇を占拠し「インド国民軍海軍」を名乗った。水兵たちは市民に混じって官憲と市街戦を展開、英印軍の将兵たちはイギリス人上官の発砲命令を拒否した。また、人々はイギリスの植民地政府による日本への戦勝記念日に弔旗を掲げて抗議の気持ちを表している。

これらインド国民軍将兵の裁判によって起こった一連の事件はインドが独立を勝ち取る大きなきっかけとなった。インド独立の過程については、ガンディーやジャワハルラール・ネルーに代表されるインド国内における大衆運動が有名だが、チャンドラ・ボースやビハリ・ボース、A.M.ナイルらインド国民軍とその関係者が独立に果たした役割も非常に大きな評価を受けている。実際にインドにおけるチャンドラ・ボースの位置づけはガンディーと同等で、ネルーより上位であり、国会での写真の飾り方はチャンドラ・ボースが最上部になっている[5]。なお1947年8月にインドが独立を獲得すると、インド政府は元インド国民軍将兵たちを表彰して年金も給付した。

また、歴史家のエリック・ホブズボームは、「インドの独立は、ガンジーやネルーが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動によるというよりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされた」としている[6]

ドイツ国防軍のインド部隊

チャンドラ・ボースは日本に移る前にも、1941年からナチス政権下のドイツで、主にアフリカ戦線で捕虜となった英印軍出身のおよそ10,000名のインド兵から志願者を募り、3,500名の志願兵部隊 (Indische Legion) を編制する仕事をしていた。

目的はドイツ国防軍と共にカフカス山嶺を越えイギリス領インドに攻め入り、イギリス支配からインドを解放することであった。しかしチャンドラ・ボースはより早い目的実現の方法として日本への協力を選んで、大島浩駐独大使に接触し、その協力で日本に向かった。その後、チャンドラ・ボースが残したインド人部隊は1944年に武装親衛隊に移管され、SS義勇インド軍団(Indische Freiwilligenlegion der SS)としてドイツ軍と共に戦っている。

彼らも戦後は、祖国独立のために戦った軍隊として、インドへ名誉ある帰還を果たしている。

追記

高い知的水準に裏打ちされたインド兵の高い能力は、第一次大戦の塹壕戦でも、第二次大戦での北アフリカの砂漠戦やビルマのジャングル戦でも証明された。

インド民族運動の指導者であったネルーは、独立への希望が確信に変わったのは、1904~05年の日露戦争でアジア人が挙げた白人への最初の勝利からだったと述べている。『アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に大きな影響を与えた。私は少年時代どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年少女そして大人が同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は敗れた。だとすれば、アジアはヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。 ナショナリズムはいっそう急速に東方諸国に広がり、“アジア人のアジア”のさけびが起こった。』

しかし、ネルーはその興奮のあとの日本への幻滅についても記している。『ところが日露戦争のすぐあとの結果は、一握りの侵略的帝国主義国のグループにもう一国(日本)をつけ加えたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは朝鮮であった。』(「父が子に語る世界歴史」ネルー著: この著作は独立闘争で獄中にあったネルーが、娘であり後にインド首相となったインディラ・ガンディーへ送った手紙の内容をまとめたものである)

ともあれ、日本がもたらした衝撃はインド人の多くが共有し、インド独立への日本の支援を期待させた。これに応えるべく日本人の間でも天竺への憧憬を根幹に持つ文化的連帯感とともに有志によるインド独立への支援が続けられた。 そして、日本人にとって忘れてはならないのは、マレー電撃戦で大量投降した英印軍捕虜が多数参加したインド国民軍(INA)と、その指導者としてドイツからはるばるUボートでやって来たベンガルの指導者スバス・チャンドラ・ボースの存在である。

漠然とした連帯感程度でしかなかった日印の協力関係が、第二次世界大戦によって一挙に軍事協力のレベルまで格上げされ、その集約点となったのがインド国民軍だった。

しかし、当時の日本政府・軍は、インド人に援助を与えて自前の軍隊を組織させたにも関わらず、インド独立への積極的関与の重要性が正確には理解できておらず、その準備もなかったため彼らとの共闘は成果を生み出せず、多くのINA兵士はインパール街道で白骨を晒した。

ボース自身は自らの地盤であるベンガル侵攻を主張していたが、これが実現した場合にボースが期待したような内応がどの程度発生したか、という点については全くの未知数である(ベンガル地方は日本軍のビルマ占領後日本軍に物資が渡ることを恐れたベンガル総督府が流通網を破壊した結果、米の流通が減少して300万人の餓死者を出したベンガル飢饉を1943年に経験している[7])。


参考文献

  • 丸山静雄『インド国民軍 もう一つの太平洋戦争岩波新書
  • 国塚一乗『インパールを超えて F機関とチャンドラ・ボースの夢講談社
  • 中島岳志『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義白水社
  • David Littlejohn: Foreign Legions of the Third Reich Vol.4, R.James Bender Publishing, 1987, ISBN 0-912138-36-X

脚注

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関連項目

  • 『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』中島岳志著 白水社、2005年 テンプレート:要ページ番号
  • 伊藤啓介・関岡英之『インド国民軍を支えた日本人たち』明成社 テンプレート:要ページ番号
  • ジョイス・C・レブラ『東南アジアの解放と日本の遺産』秀英書房 テンプレート:要ページ番号
  • 長崎暢子『ガンディー 反近代の実験岩波書店 テンプレート:要ページ番号
  • 名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社 テンプレート:要ページ番号
  • 河合秀和訳『20世紀の歴史――極端な時代(上・下)』(三省堂, 1996年) テンプレート:要ページ番号
  • http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2754712/6167021