デリー

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デリーDelhi)はインド北部の大都市圏で、同国の商業工業政治の中心地の1つ。面積1,483km2人口は1,100万人で、南アジアを代表する世界都市の一つ。インドの首都である(後述)。

都市の概説

デリー首都圏を構成し、ニューデリーオールドデリーに分けられる。ニューデリーの中にはニューデリー行政区があり、ここに連邦の首都機能がある。古くは現在のオールドデリーだけの町であったが、イギリス統治下の新しい首府としてニューデリーが建設された。イギリスの設計と建設による新都市部分をニューデリーと呼び、古くからある町をオールドデリーと呼んでいる。2011年の近郊を含む都市圏人口は2,163万人であり、世界第2位である[1]プライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、デリーの2008年の都市GDPは1670億ドルであり、世界第37位である。

2002年以降に発行された『世界の国一覧表』(編集発行:(世界の動き社、編集協力:外務省)では、インドの首都が「ニューデリー」から「デリー」に修正され、日本の教育現場ではインドの首都は「デリー」と指導されるようになっている。ただし、インド政府公式サイトおよび日本の外務省のサイトにおいては首都は「ニューデリー」と表記されている。

歴史

建設からデリー・スルタン朝

デリーは12世紀以降各王朝の首都がおかれてきたが、その位置は王朝によって異なる。おおまかに東をヤムナー川、西を岩石の丘陵地、南を点在する丘陵に囲まれた三角形の地域(デリー三角地)に、各王朝がそれぞれ新王都を建設したからである。現在のオールド・デリーはムガル帝国中期に建設された市街地である。

チャウハーン朝のプリトヴィーラージによってこの地に最初に都市がつくられたのは12世紀である。当時のデリーはデリー三角地の南西端にあたるラール・コートであった。デリーはプリトヴィーラージ・チャウハーン3世の時代に繁栄を迎えるも、1192年にはゴール朝の将軍であったクトゥブッディーン・アイバクの率いるイスラム教徒に征服され、プリトヴィーラージは死亡して、以後デリーは800年以上にわたるイスラム支配のもとにおかれることとなった。アイバクは征服したデリーを北インドにおける拠点と位置づけ、ラール・コートの跡にクトゥブ・ミナールの建設をおこなうなど市内の整備を行った。1206年にゴール朝のスルタンであるシハーブッディーン・ムハンマドが死去し、後継者争いによってゴール朝が解体に向かうとアイバクは奴隷王朝を建国して独立し、以後1290年までの奴隷王朝、1290年 - 1320年ハルジー朝、1320年-1414年トゥグルク朝、1414年-1451年サイイド朝、1451年-1526年のロディー朝と、1526年までの間デリーに首都を置いた5つの王朝が相次いで興亡を繰り返した。この5王朝は、総称してデリー・スルタン朝と呼ばれる。この時代、1398年にはティムール帝国ティムールによって征服、破壊されるなどしたものの、デリーには常に首都がおかれ、北インドの要衝として発展した。また、これらの王朝はすべてイスラム王朝であり、のちのムガル帝国期も含めて、デリーはインドにおけるムスリム文化の中心地として重きをなした。

奴隷王朝期には首都はラール・コートにおかれていたものの、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーは1303年にラール・コートの北東にあたるシーリーに新たに城塞都市を建設し、ここを根拠地とした。しかしハルジー朝は間もなく滅亡し、これを継いだトゥグルク朝のギヤースッディーン・トゥグルク1321年、ラール・コートの東、シーリーの南東にトゥグルカーバードという新城塞都市を建設してここを根拠地とした。その息子のムハンマド・ビン・トゥグルク1327年にラール・コートとシーリーをつなぐ大城塞都市の建設を企図し、ここをジャハーン・パナーと名づけたものの、経済の混乱によって計画は未完に終わった。ムハンマドの跡を継いだフィーローズ・シャー・トゥグルクは、それまで城塞都市がデリー三角地の南端に集中していたのに対し、三角地の北端に近い現在のオールドデリーからニューデリー付近に1354年に新城塞都市を築き、これをフィーローザーバードと称した。このように各地に点々と建設された各城塞都市が存在し、その間に農村や荒野、その他さまざまな建造物が点在するというのがデリー・スルタン朝時代のデリーの様相であった[2]

ムガル帝国期

1526年ムガル帝国を創設したバーブルはデリー南方にあるアーグラを首都とさだめたが、その息子フマーユーンはデリーに新しく都市を建設し、首都とした。1540年にフマーユーンを追って一時スール朝を開いたシェール・シャーもデリーに首都を置き、シェール・シャーの息子を倒してふたたびデリーを奪回したフマーユーンもまたデリーを都とし、プラーナー・キラーに本拠を置いた。しかし、フマーユーンの息子アクバルは、再び首都をアーグラへと移し、デリーは荒廃の一途をたどった。1648年にデリーは再度ムガル帝国の首都となると、アクバルの孫シャー・ジャハーンによって再建され、現在のデリーの基礎がきずかれた。現在オールド・デリーと呼ばれているデリー旧市街は、シャー・ジャハーンが築いたものであり、建設当時は「シャージャハーナーバード」(シャー・ジャハーンの町)と呼ばれていた。これ以後もムガルの首都はアーグラとデリーの間を行き来するが、6代皇帝アウラングゼーブの死後、ムガル帝国の首都はデリーに固定された。これはムガル帝国の勢力が急速に縮小し、デリー近郊以外の支配を維持できなくなったことによる。

衰退したムガル帝国にデリーを守る力はなくなっており、以後デリーは幾度となく戦禍に見舞われることとなった。1739年ペルシャナーディル・シャーは有名な孔雀の玉座などの財宝を略奪し、支配下においた。1771年マラータ王国の勢力下にはいり、1803年にはマラーター戦争の結果イギリスが支配権を獲得する。1857年インド大反乱によって一時的に占拠され、名目的な存在ではあるがこの町にて在位していたムガル皇帝バハードゥル・シャー2世も反乱側に加担したが、同年に奪回され、バハードゥル・シャー2世がデリーからミャンマーに配流されることでムガル帝国は完全に滅亡した。

インドの首都へ

ムガル帝国滅亡によってデリーは一地方都市となり、パンジャーブ州に所属することとなった。さらにインドにおけるムスリム文化の中心としての役割もなくなって一時衰退が進んだ。しかし、1867年にはじめてデリーに鉄道が開通したのを皮切りに、19世紀末には当時イギリスがインド全土に張り巡らせていた鉄道網の北インドにおける結節点となり、徐々に繁栄を取り戻していった。やがて当時の英領インドの首都だったコルカタが東に寄りすぎているうえに、ベンガル分割令から政治的に急進化する傾向が生まれたために首都の移転が計画され、ムガル帝国の旧都であったデリーに白羽の矢が立てられ、1911年には正式に首都が移されることが決定された。同年パンジャーブ州からデリーは切り離されて独立州となり、1915年1925年1926年に近隣諸県から数か村を編入して領域を拡大した[3]1912年-1931年イギリス領インド帝国の暫定的な首都だったが、1931年ニューデリーが正式に首都に制定された。1947年インド独立時にも引き続いてデリーが首都とされたが、分離独立時の大混乱によってパキスタン領となったパンジャーブ州西部からヒンドゥー教徒やシク教徒の難民が大量に流入し、また独立の約半年後、1948年1月30日にニューデリー南部のビルラー財閥のデリー邸において滞在中だったマハトマ・ガンディーがヒンドゥー極右青年によって暗殺されるなどの混乱もあった。しかし独立以来、産業が急速に発達するとともに人口も急増した。現在、デリーはムンバイに次ぐインド第2の人口を持つ大都市となっている。

地理

ガンジス川の支流、ジャムナ川の右岸にある都市。東をジャムナ川、西を岩石の丘陵、南を点在する丘陵に囲まれ、東のヒンドスタン平原と西のパンジャーブ平原の2大穀倉地帯の中間に位置し、さらにガンジス川流域ながらインダス川との分水界にほど近い場所にあって、古くから交通の要衝となっていた。

ニューデリー

オールドデリーの南にあり、1911年にイギリスの手で建設が始まった地域。これにより、首都機能はここに移った。設計はエドウィン・ラッチェンスによって行われ、円形のコンノートプレイスを旧市街も含めた町の中心に、新市街の業務中心の北端に位置するように置き、そこから南に二本の道を正三角形を描くように道を伸ばし、三角の東端であるインド門と西端である政府合同庁舎および大統領官邸、およびそれをつなぐ広い道であるラージパトゥ通りの描く三角形が街の主要部分となっている。議事堂官庁などが集まっているインドの政治経済文化の中心。人口30万人。ラージパトゥ通り沿いには国立博物館がある。コンノートプレイスの北にはニューデリー駅があり、長距離列車が発着しデリーのターミナル駅となっている。ニューデリー駅前にはパハールガンジという安宿街が広がり、多くのバックパッカーが訪れる。ニューデリー東部にはラクシュミーナーラーヤン寺院がある。また、ニューデリー南西のチャーナキャプリー地区は大使館街となっており、日本大使館をはじめアメリカイギリスドイツ中国フランスパキスタンなど各国の大使館が軒を連ねる。

なお、ニューデリーはかつても何もない荒野だったわけではなく、ムガル帝国初期には帝国の中枢がおかれていたこともある。インド門から東に少しいったところにあるプラーナ・キラー(オールド・フォート)は、ムガル第2代皇帝であるフマーユーンが改修し自らの居城としたところである。プラーナ・キラーから南にいくとフマーユーン廟があり、その向かいにはイスラムの聖者であるニザームッディーン・アウリアーを祀ったインド有数の聖者廟であるニザームッディーン廟がある。また、コンノートプレイスの少し南にあるジャンタル・マンタルは、ジャイプルマハラジャであるジャイ・スィン2世が天文台として1724年に建設したものである。

オールドデリー

ニューデリー建設時における本来のデリーであり、ムガル帝国の後期の首都だった地域である。オールドデリー中央部にあるインド最大のモスクであるジャーマー・マスジッドなど、歴史的建造物が多い。現在のデリー市中心域の北端にあたる。現在の行政域ではセントラル区の東部に当たる。東にジャムナ川が流れる。北東端にあるデリー城はレッド・フォートとも呼ばれ、ムガル第5代皇帝シャー・ジャハーンが建設し自らの居城とした城である。レッド・フォートからまっすぐ西へと延びる大通りはチャンドニー・チョウクと呼ばれ、オールド・デリーの目抜き通りとなっている。オールドデリーの北側にはデリー駅があり、ラージャスターン州方面への列車が発着している。オールドデリー南東端、ジャムナ川の近くにはガンディーの記念碑であるラージ・ガートがあり、参拝客が多い。その斜め向かいにはガンディー記念博物館がある。

南部

ニューデリーのさらに南の地区は12世紀に建設された最も古いデリーであり、ラール・コート、シーリー、トゥグルカーバードといった古代の城塞都市の遺跡が点在する。ラール・コート内には、クトゥブ・ミナールデリーの鉄柱といった文化遺産が残っている。また、特徴的な外観からロータス・テンプルと呼ばれるバハーイー教の寺院もこの地域にある。また、近年では大規模なショッピングセンターの建設が相次ぎ、コンノートプレイスに代わって商業集積ができつつある。フィーローズ・シャー・トゥグルクによって建設された人工貯水池であるハウズ・カース遺跡があり、その隣にあるハウズ・カース・ヴィレッジは1980年代以降開発が進み、画廊やブティックなどが並ぶスポットとなっている[4]

北部

オールド・デリーの北にあたるシヴィル・ラインズ地区は、デリー遷都後ニューデリー完成までの間に過渡的に首都機能を持った。現在ではデリー大学の事務局や北キャンパスなどがある。

ジャムナ川東岸

かつてデリーの東境はジャムナ川であったが、デリーの拡大とともに東岸にも市街地が拡大し、現在ではデリー北東区とデリー東区の二つの区が設置されてデリー市域の一部となっている。2005年にはここに世界最大のヒンドゥー寺院であるアクシャルダム寺院が建設された。

気候

ケッペンの気候区分によると、温帯夏雨気候 (Cwa) に属する。3月上旬には、風の方向が北西から南西に変わる。3月から5月までは非常に暑い[5]が、この時期は降雨はほとんどなく、暑季と呼ばれてのちの雨季とは区別される。6月下旬になるとモンスーンが到着し、湿度が非常に高くなる[5] 。これから10月初頭までは雨季となり、デリーの年間降雨のかなりの部分がこの時期に集中する。11月初旬から2月にかけては乾季であり、穏やかなとなる。冬といっても日中の平均最高気温は20度を超えており、他国からの観光客にとっては最もすごしやすいベストシーズンとされる。この時期、特に1月をピークに濃霧が発生しデリーを覆うことがある[6]

デリーの年平均気温は25 ℃である。毎月の平均気温範囲は13℃から32℃の間である。デリーの最高気温記録は1931年7月に観測された45℃である[7][8]。デリーの年間平均降雨量は約714㎜であり、ほとんどが7月と8月のモンスーン時期に降る[9]。デリーにモンスーンがやってくるのは平均では6月29日である[10]

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行政

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デリー9区の地図

2007年の再編以来、連邦直轄領であるデリー首都圏 (National Capital Territory of Delhi) は9つの区 (district)、 27の地区 (tehsil)、59の町 (census town)、300の村 (villages) から成る[11]。これらは3つの法令指定行政自治体 (statutory towns) に属する。その3つとはデリー市行政自治体 (Municipal Corporation of Delhi, MCD)、ニューデリー市行政委員会 (New Delhi Municipal Committee, NDMC)、デリー宿営地委員会 (Delhi Cantonment Board, DCB) である[12][13]2012年7月16日、デリー政府は区の数を9から11へと増加させることを決定した[14]

デリー首都圏の中で最大の面積を管轄するのがデリー市行政自治体 (MCD)。インドの首都機能はニューデリー市行政委員会 (NDMC) の管轄区に入り、NDMCの長 (chairperson) はデリー知事 (Chief Minister of Delhi) との相談の上インド政府により任命される。

デリーの郊外には主に4つの衛星都市があり、それらはデリー首都圏の外側に広がる。ハリヤーナー州グルガーオン (Gurgaon)、ファリーダーバード (Faridabad)、ウッタル・プラデーシュ州ノイーダ (Noida)、ガージヤーバード (Ghaziabad)、の4都市である。

経済

住民

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2011年のインドのセンサスによれば、デリーの人口は16,753,235人である。人口密度は1㎞2あたり11,297人で、男女比は男性1000人に対し女性866人、識字率は86.34%である。2004年には、出生率は20.03、死亡率は5.59、乳児死亡率は13.08であった[15]。デリーは世界で最も急速に人口の増加している都市の一つであり、2015年までに東京ムンバイに次いで世界で3番目に大きな大都市圏となる見込みである[16]

デリーで最も信者の多い宗教はヒンドゥー教であり、デリー人口の82%を占める。次いで多いのがイスラム教の11.7%であり、次いでシク教(4%)、ジャイナ教(1.1%)、キリスト教(0.94%)、バハーイー教(0.1%)と続く[17][18]。このほか、仏教ユダヤ教ゾロアスター教の小規模なコミュニティも存在する[19]。デリーで最も主な言語はヒンドゥスターニー語であり[20]、なかでもヒンディー語のデヴァーナガリ文字が最も多く筆記に使用される[21] 。このほか、ウルドゥー語パンジャービー語の話者も多く、この2言語はデリーで2番目に話者の多い言語となっている[22]。かつてはデリーはインドのムスリム支配の中心地であり、上層のムスリムが使用していたウルドゥー語が強い力を持っていたが、インドとパキスタンの分離独立時に上層ムスリムのかなりが流出し、さらにシクおよびヒンドゥーとイスラムの間で州が分裂してしまったパンジャーブで、イスラム側となった州西部から逃れてきたヒンドゥーおよびシク教徒のパンジャーブ人が大量に流入したため、パンジャービー語やシク教徒の割合が増加する一方でウルドゥー語の影響力は弱まった。1931年にはデリー住民のうちヒンドゥー教徒が63%、ムスリムが33%、シク教徒が1%を占めるのみだったのが、1981年にはヒンドゥーが84%、ムスリムが8%、シク教徒が6%となっていた[23]

交通

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オールドデリーのメトロ

デリーの交通網はバスデリー・メトロ三輪タクシーを中心に形成されている。とくにバスはデリーの交通手段として最も主要な乗り物であり、全体の約60%の需要を占める。

地下鉄のデリーメトロも大量輸送網として広く利用され、2002年に第1次路線が開業後、順調に路線を伸ばし、現在新路線も建設中である。三輪タクシーはタクシーよりも低運賃として人気がある。もちろんタクシーも簡単に乗ることはできるが、デリー交通網において比較的重要な位置は占めていない。

また、市南西部に位置するインディラ・ガンディー国際空港は国内外からの便を問わず、主要な市への玄関口となっており、南アジアでも最も乗降客数の多い空港の一つとなっている。これから空港の拡張によって、よりハブ空港としての重要性を増すことになるであろう。なお、日本からはエア・インディア日本航空成田国際空港から毎日定期便を運航している他、全日空が2012年10月28日より就航予定。関西国際空港からも定期便が運航されている。

しかし、近年の経済成長によるデリーの急激な人口増加は、交通機関の著しい飽和状態を生み出す原因の一つであり、これから取り組むべき課題は山積している。

観光

世界遺産

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フマーユーン廟はムガル建築の代表的な建築物

その他

スポーツ

クリケットサッカーがデリーでは最も人気のあるスポーツ[24]である。市内にクリケット場もいくつかある。またデリーはクリケットのインディアン・プレミアリーグ (IPL) のデリー・デアデビルズと、インディアン・クリケット・リーグ (ICL) のデリー・ジャイアンツの本拠地である。

サッカーでは、2011/12年シーズンよりIリーグに参加予定のU-19クラブはデリーを本拠地としている。デリーのサッカースタジアムはアンベードカル・スタジアムだが、もともと2万人収容の競技場に近年5万人の動員するほど人気を博している。

ラグビーも近年若年層を中心に人気が出ており、デリー・ライオンズとデリー・ハリケーンのクラブチームがある。Asian5Nations(アジア5カ国対抗ラグビー)の2010年大会の開催地となった。競技場はデリー大学北キャンパスのものが唯一。

ボクシングは郊外のグルガーオンで最も人気のスポーツとなっている。他にはフィールドホッケーバスケットボールテニスゴルフバドミントン水泳などが人気である。バドミントンでは、毎年4月に世界大会であるBWFスーパーシリーズのひとつとしてインド・オープンがニューデリーで開かれている。

他にデリーにはスポーツ競技場として、ジャワハルラール・ネルー・スタジアムインディラ・ガンディー・アリーナがある。デリーは国際的なスポーツ競技会も多く開催しており、1951年第1回アジア競技大会1982年第9回アジア競技大会2010年コモンウェルスゲームズを開催した。

デリー郊外グレーター・ノイダ地区に建設中のブッダ・インターナショナル・サーキットで、2011年にF1インドグランプリが開催予定である。

ギャラリー

姉妹都市

デリーは以下の都市と姉妹都市となっている[25]

関連項目

脚注

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外部リンク

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日本政府
観光
世界遺産
建築

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  1. Demographia: World Urban Areas & Population Projections
  2. 「多重都市デリー」pp162-163 荒松雄著 中公新書 1993年11月25日発行
  3. 「多重都市デリー」pp230-231 荒松雄著 中公新書 1993年11月25日発行
  4. 「週刊朝日百科 世界100都市 ここに行きたい 第46号 デリーとアーグラー」p9 2002年10月27日発行
  5. 5.0 5.1 テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite news
  7. テンプレート:Cite news
  8. テンプレート:Cite web
  9. http://delhiplanning.nic.in/Economic%20Survey/ES%202005-06/Chpt/1.pdf Chapter 1: Introduction" (PDF). Economic Survey of Delhi, 2005–2006. Planning Department, Government of National Capital Territory of Delhi. pp. 1–7. Retrieved 21 December 2011
  10. テンプレート:Cite news
  11. テンプレート:Cite book
  12. テンプレート:Cite web
  13. テンプレート:Cite web
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  15. テンプレート:Cite web
  16. テンプレート:Cite web
  17. Census 2001
  18. テンプレート:Cite web
  19. テンプレート:Cite web
  20. テンプレート:Cite web
  21. テンプレート:Cite web
  22. テンプレート:Cite news
  23. 「多重都市デリー」pp242-243 荒松雄著 中公新書 1993年11月25日発行
  24. テンプレート:Cite news
  25. テンプレート:Cite web
  26. テンプレート:Cite web
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  28. 29.0 29.1 29.2 テンプレート:Cite web
  29. テンプレート:Cite web