アンブローズ・ビアス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 作家

アンブローズ・ギンネット・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce, 1842年6月24日[1] - ?)は、アメリカ作家ジャーナリストコラムニスト。代表的な著作に、風刺辞書『悪魔の辞典』、短編小説「アウル・クリーク橋の一事件」がある。人間の本質を冷笑をもって見据え、容赦ない毒舌をふるったことから、「辛辣なビアス (Bitter Bierce) 」と渾名された。

生い立ち

マーカス・オーレリアス・ビアス(1799年 - 1876年)とその妻ローラ・シャーウッド・ビアスの子として、オハイオ州メグズ郡ホースケイブ・クリークに生まれる[1]。母親は17世紀のプリマス総督ウィリアム・ブラッドフォードの末裔にあたる。両親は貧しくも文学的素養があり、ビアスに読書と書き物への深い愛着を育んだ[1]。幼年期をインディアナ州カズヤスコ郡で過ごし、郡庁所在地ワルショウのハイスクールに通った。

父マーカスは13人の子すべてに A で始まる名前をつけた。上から順番に、アビゲイル、アメリア、アン、アディソン、オーレリアス、オーガスタス、アルメダ、アンドリュー、アルバート、アンブローズ、アーサー、アデリア、オーレリアで、アンブローズ・ビアスは第10子である。下の3人の子は早くに没したため、事実上の末子として育てられた[2]。生家に馴染めず、15歳のときに家を出て『ノーザン・インディアナン』という小さな新聞の植字工見習いとなって以来、上の兄アルバートを除く家族とは疎遠になった[2]

軍歴

南北戦争が勃発すると、ビアスは北軍に志願し、第9インディアナ歩兵連隊に加入した。ウェストバージニア方面作戦(1861年)に従軍、6月、「最初の戦い」であるフィルーピーの戦いに参加、7月のリッチ・マウンテンの戦いでは重傷を負った戦友を銃火の下救出し、その勇敢さを新聞に紹介されている。1862年2月、少尉の任官を受け、ウィリアム・ヘイズンの幕僚となり、測量技官として戦場想定地の地図の作成に当たった。

1862年4月、シャイローの戦いに参加。ここでの凄惨な体験が、後の小説や、回想記『私がシャイローで見たもの』の下地になっている。1864年6月、ケネソー・マウンテンの戦いにおいて頭に重傷を負い、夏の終わりまで療養生活を送ったが、9月には軍務に復帰した。1865年1月に除隊となった。

しかし1866年半ば頃に復員、グレートプレーンズを横断する前哨地視察を目的とするヘイズンの調査旅行に後半から参加した。馬や馬車を使ったこの旅はネブラスカ州オマハに始まり、年末にはカリフォルニア州サンフランシスコに到着した。

私生活

ファイル:Ambrose Bierce-1.jpg
肖像画(J・H・E・パーティントン画、1866年頃)

ビアスは1871年12月25日にマリー・エレン・デイ(通称モリー)と結婚した。2人の間には長男デイ(1872年 - 1889年)[3]、次男リー(1874年 - 1901年)[3]、末女ヘレン(1875年 - 1940年)という3人の子供が生まれている。2人の息子はビアス本人よりも早く死亡している。デイは女性を巡る争いの中銃で撃たれて死に[3]、リーは深酒に遠因する肺炎で死亡した[3]。妻がとある男性にあてた手紙に不義の疑いを抱いたビアスは、1888年以降別居を始め、やがて1904年に離婚した[3]。モリーはその翌年に死亡した。

もっとも、ビアス自身は数多くの女性と交友しており、たとえば同業のジャーナリストであるブランシュ・パーティントンとは、恋愛感情の有無は別としても[4]、生涯交流を持ち続けており、また聾唖の詩人リリー・ウォルシュに対しては自宅の一角に住居を提供していた[5]。敵対者も多かったが、同時に私淑者も多く、ビアス自身もまたW・C・モローアドルフ・ド・カストロジョージ・スターリングなど、若い世代の面倒をよく見ている[5]

また、生涯にわたって、喘息[3][6]や戦傷の後遺症に悩まされ続けた[7]。特に喘息は年を追うごとに悪化し、晩年にメキシコに行かなかったという説の一つの論拠となっている[8]

ジャーナリズム

サンフランシスコで名誉少佐の辞令を受けた後、除籍となる。その後数年にわたってサンフランシスコに留まり、やがて『サンフランシスコ・ニューズレター』『アルゴノート』『オーバーランド・マンスリー』『カリフォルニアン』『ワスプ』といった数々の地方紙の寄稿者・編集者として活動し、名の知れた存在になっていく。『サンフランシスコ・ニューズレター』で執筆した犯罪記事は、アメリカの古典文学を扱う非営利出版社であるライブラリー・オブ・アメリカのアンソロジー『犯罪編』にも採録されている。

1872年から1875年にかけてはイギリスで執筆活動を行い、『ファン』誌に寄稿した。ビアスの初の著書『魔物の愉悦』は、それまでに書いた記事をまとめるという形で、ジョン・キャムデン・ホットンを出版者とし、「ドッド・グリル」名義で、1873年にロンドンで出版された[9][10]

その後アメリカに戻ると、ふたたびサンフランシスコに居を構える。1879年から1880年にかけ、ニューヨークの採掘会社の現地支配人として、当時ダコタ準州であったサウスダコタ州のロックビルやデッドウッドに赴いたが、会社の経営が行き詰るとサンフランシスコにもどって執筆業に復帰した。

1887年、ウィリアム・ランドルフ・ハーストが経営に着手した新聞『サンフランシスコ・エグザミナー』の初期の連載コラムニストの一人として『プラットル』というコラム欄を担当し[1]、やがて、西海岸でもっとも強い影響力をもつライターに数えられるようになった。ハースト・ニュースペーパーズとの関係は1908年まで続いた。

大陸横断鉄道をめぐる政府融資

ユニオン・パシフィック鉄道セントラル・パシフィック鉄道は、最初の大陸横断鉄道を敷設するにあたり、合衆国政府から多額の融資を受けていた。貸付条件はゆるいものだったが、しかしコリス・ハンティントンは合衆国議会内の仲間に働きかけ、両社あわせて7千5百万ドルの債務を免ずる法律を成立させようとした。

1896年、ハーストはこの試みを挫くべく、ワシントンD.C.にビアスを派遣した。この企みの真意は秘匿されており、鉄道社側は、大衆のあずかり知らぬうちに法律を成立させようと期していた。激怒したハンティントンは、議事堂前のステップでビアスに出くわすと、いくら欲しいのかとなじった。これに対するビアスの回答は、全米の新聞に掲載された[11]

テンプレート:Quote

ビアスの報道と痛烈な批判の結果、世論の怒りが高まり、法案は棄却された。ビアスは11月にカリフォルニアに戻った。

マッキンリー大統領暗殺事件

ビアスは世間に対する容赦のない毒舌や風刺を強く好んだため、新聞記者としてのその長いキャリアにおいて、論争を生じさせることも少なくなかった。実際、ビアスのコラムの中には非難の嵐を巻き起こしてハーストの立場を危うくしたものもある。一つを挙げると、1900年にビアスが書いた風刺詩が、1901年のマッキンリー大統領暗殺事件後にハーストの政敵たちによって問題とされ、世間の注目を集めた事件がある。

ケンタッキー州知事への就任を控えていたウィリアム・ゴーベルの暗殺事件に際してビアスが書いたこの詩は、世間が感じている恐怖感を表現しようとしたものだったが、翌年にマッキンリーが暗殺されると、次に挙げる部分が事件を事前に知っていたと読むことができたのである。

テンプレート:Quote

ハーストと対立関係にあった新聞社や当時の国務長官エリフ・ルートは、ハーストがマッキンリーの暗殺を事前に知っていたものとして責任を追及した。沸騰する世論の中でハーストは、大統領職への野心に終止符を打たれ、ボヘミアンクラブからも除名されたが、問題の風刺詩の作者がビアスであることを明かすこともなければ、ビアスを解雇することもしなかった[12]

著作

ビアスは同時代人から「純粋な」英語の達人と見られていたため、そのペンから生まれたもののほとんどすべてが、語法や文体の上で注目に値するものとみなされていた。さまざまなジャンルの作品をたくみに書いており、幽霊もの・戦争ものの短編小説の他、詩集も出版している。また『悪魔の寓話』は20世紀には一般的なジャンルとなったグロテスク・アイロニーの先駆けを成した。

特にその短編小説は19世紀最高の部類に入ると考えられている。みずから南北戦争で見聞きした凄惨な出来事を「アウル・クリーク橋の一事件」「レサカにて戦死」「チカモーガ」などでリアリズムをもって描いた。

もっとも有名な作品の一つに、多々引用される『悪魔の辞典』がある。隠語や玉虫色の表現に痛烈な風刺を加え、言葉に興味深い再解釈を施したこの作品は、そもそもは新聞紙上で連載されたものが、まず1906年に『冷笑派用語集』として出版された。1909年に出版された全12巻の全集の第7巻に収録される際に、ビアス本人の希望によって『冷笑派用語集』から『悪魔の辞典』に改題されている。

失踪

1913年10月、71歳のビアスはワシントンD.C.を発ち、かつて関わった南北戦争の旧戦場をめぐる旅に出た。12月までの間にルイジアナテキサスを通過。エル・パソを抜け、当時メキシコ革命のために混乱状態にあったメキシコに入国した。シウダー・フアレスパンチョ・ビリャ軍にオブザーバーとして加入し、その立場でティエラ・ビアンカの戦いを取材した。

チワワ州チワワまではビリャ軍と行動をともにしていたことが知られている。この街から古馴染みのブランシュ・パーティントン1913年12月26日付で宛てた「私自身もまた、明日ここを去ればその先どこに向かうかはわからない」[13]と記した手紙を最後に消息を絶った。

ビアスの失踪はアメリカ文学史上もっとも有名な失踪事件のひとつとなった。その行方を探る試みは何度も行われたが発見されることはなく、行き止まりの洞窟に入って二度と出て来なかった[14]、戦場で横死した、チワワ州シエラ・モハダで銃殺刑に処された[15]、そもそもメキシコに行ったという確かな証拠はない[8]、と、諸説さまざまである。

評価

伝記作家リチャード・オコナーは、戦争体験によってビアスの魂には吼えたける悪魔がすみついたと論じた。「戦争が、一人の人間としての、一人の作家としてのビアスを作り上げた。その恐ろしい体験こそが、首のない血みどろの死体や、猪に食い荒らされたなきがらを、戦いの場から紙の上にに移動させることを可能にしたのである」[1]

エッセイストであるクリフトン・ファディマンはこう記した。「ビアスは決して偉大な書き手ではなかった。その不見識と想像力の貧困さは痛ましいほどである。だが……そのスタイルは、ビアスの名を後世に残すひとつの要素だろう。そしてその厭世観の混じりけのなさもまた、ビアスが生き続ける一因となるに違いない」[1]

作家カート・ヴォネガットは、「アウル・クリーク橋の一事件」をアメリカ文学の短編小説中最高傑作と評したことがある。「アメリカの最高の短編小説である、アンブローズ・ビアスの『アウル・クリーク橋の一事件』を読んだことがない連中となればお話にならない……この小説はアメリカ人の天性の完璧な例である……」[16]

日本における初期の紹介者である芥川龍之介もまた、ビアスの短編小説を高く評価した。「短編小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少い。評家がポオの再来と云ふのは、確にこの点でも当たつてゐる」[17]

『悪魔の辞典』の訳書も出している筒井康隆は、『短編小説講義』(岩波書店1990)で、『いのちの半ばで』の「アウル・クリーク橋の一事件」を除く収録作を「いささかレベルの低い作品ばかり」「あきらかに駄作と思われる作品もある」とし、「作家として二流であった」(才能の本領はジャーナリストであったという意味で)とまで書いているが、一方で「アウル・クリーク橋の一事件」については「これ一作で充分ではないか」「短編小説の傑作というものは本来アンブロウズ・ビアスほどの才能ある人物でさえ(中略)稀にしか出現しないのではないか」と高評価を与えている。

後世への影響

代表作『アウル・クリーク橋の一事件』は、少なくとも3回映画化されている。サイレント映画 The Bridge は1929年の製作である。ロベール・アンリコ監督によるフランス語版『ふくろうの河』は1962年に発表された。これはオリジナルの物語を忠実にアテレコした白黒映画で、1964年にはアメリカ合衆国のテレビドラマシリーズ『トワイライト・ゾーン』の最終回「アウル・クリーク橋の一事件」としても放送された。ブライアン・ジェイムズ・イーガン監督のバージョンは2005年に発表された。

ロバート・W・チェンバースは、短編集『黄衣の王』(1895年)の中で、ビアス作品からハスターカルコサなどいくつかの用語や架空の地名を借用している。のちにホラー小説家のH・P・ラヴクラフトがこれらを自分の小説に取り込んだため、さらにのちの作家たちによって体系化されたラブクラフトの世界『クトゥルフ神話』にも登場している。

芥川龍之介は、『点心』でビアスを紹介するよりも前に「藪の中」(1922年)を発表している。1つの事件が3者から3様に語られ、最後は霊媒師を介して幽霊が証言するというその筋書きは、ビアスの「月明かりの道」に着想を得ているという見方がある[18]。また、遺稿『侏儒の言葉』には『悪魔の辞典』の影響が見られる[18]

ビアス本人、特に失踪前後のいきさつを扱ったフィクションも数多い。

イギリス出身の小説家ジェラルド・カーシュの短篇「壜の中の手記」(1958年)では、ビアスが失踪前に書いた手記が発見される。手記のなかでビアスは、「旧き種族」と名乗る人々との遭遇を書いている。カーシュは、この作品でエドガー賞 短編賞を受賞した。

メキシコの小説家カルロス・フエンテスはビアスの失踪後を扱ったフィクション小説『老いぼれグリンゴ』(1985年)を著した。ビアスの性格をうまく使い、当時のメキシコ社会の混乱と米国との関係を説得力をもって展開したこの小説は、1989年にルイス・プエンソ監督、グレゴリー・ペック主演で『私が愛したグリンゴ』として映画化された。

日本の小説家丹羽昌一が著した『天皇(エンペラドール)の密使』(1995年)には、革命中のメキシコに邦人保護の使命を帯びて派遣される主人公の日本人官吏と絡む重要人物としてビリャ軍時代のビアスが登場する。本作におけるビアスは、歴史考証を行った上でビアスの失踪前の動きにほぼ近い形で描かれている。1995年の第12回サントリーミステリー大賞大賞・読者賞を受賞したこの作品は、同年テレビドラマ化されている。

メキシコ革命時代を舞台とするバンパイア映画『フロム・ダスク・ティル・ドーン3』(2000年)では、マイケル・パークス演じるビアスが主要人物として登場する。

作品リスト

短編集

  • 『生のさなかにも』 In the Midst of Life
  • 『豹の眼』 Tales of Soldiers and Civilians
  • 『死の診断』 A Diagnosis of Death
  • 『修道士と絞刑人の娘』 The Monk and the Hangman's Daughter
  • 『悪魔の寓話』 Fantastic Fables/Epigrams
  • 『完訳・ビアス怪異譚』
    • 「羊飼いのハイータ」 Haita the Shepherd
    • 「カルコサの住民」 An Inhabitant of Carcosa
  • 『ビアス怪談集』
  • 『対訳ビアス』
  • 『ビアス選集』
    1. 戦争
    2. 人生
    3. 幽霊 1
    4. 幽霊 2
    5. 殺人
  • 『つかのまの悪夢』
  • 『よみがえる悪夢』

その他

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

外部リンク

テンプレート:Wikisource author テンプレート:Sister

テンプレート:Normdaten
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 Floyd, p. 18.
  2. 2.0 2.1 Joshi, "Introduction" in Selected Letters, p. xvi.
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 Floyd, p. 19.
  4. Selected Letters, p. 26.
  5. 5.0 5.1 Joshi, "Introduction" in Selected Letters, p. xviii.
  6. Floyd, p. 20
  7. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「online-literature.com」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  8. 8.0 8.1 Nickell, Ambrose Bierce Is Missing.
  9. Selected Letters, p. 8.
  10. Morris, Alone in Bad Company, p. 143.
  11. Morris, Alone In Bad Company, p. 226.
  12. Morris, Alone in Bad Company, p. 237.
  13. Selected Letters, pp. 244+.
  14. 大長編ドラえもん のび太の日本誕生65ページでこのことに触れている。また、同作者の『T・Pぼん』「超空間の漂流者」では、洞穴で時間の渦に巻き込まれ、遥か未来まで漂着してしまったことになっている。
  15. The Ambrose Bierce Site
  16. Vonnegut, Kurt. A Man Without a Country, pp. 7-8.
  17. 芥川龍之介『点心』
  18. 18.0 18.1 大津栄一郎(2000年)「解説」、テンプレート:Cite book