アレッサンドラ・ムッソリーニ

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テンプレート:政治家 アレッサンドラ・ムッソリーニAlessandra Mussolini1962年12月30日 - )は、イタリア医師女優政治家赤十字社名誉会員。

ジャズピアニストロマーノ・ムッソリーニの長女で、ファシズム思想の創始者ベニート・ムッソリーニの孫娘にあたる。また女優ソフィア・ローレンの姪(母マリアがソフィアの実妹)でもある。

概要

生い立ち

1962年12月30日イタリア共和国ラツィオ州ローマに音楽家ロマーノ・ムッソリーニとアンナ・マリア・シッコローネの長女として生まれる。父ロマーノは名が示す通り、王政期のイタリアで独裁体制を築いた国家ファシスト党(PNF)のベニート・ムッソリーニ首相とその後妻ラケーレ・グイーディの三男(前妻イーダ・ダルセルとの子を含めれば四男)であったが、政治とは距離を取ってピアニストとして生計を立てていた。その為、第二次世界大戦前後の騒乱に巻き込まれず、共和制に移行した戦後イタリアで静かな日々を送っていた。

芸能活動と学業

一方、母アンナもアカデミー賞女優として知られるソフィア・ローレンの実妹であり、むしろ当初はこちらの血縁の方が彼女の人生に強い影響を与えた。1970年代からソフィアの元で養育を受け、アカデミー賞及びゴールデングローブ賞の外国映画部門にノミネートされた『特別な一日』で映画デビューを果たし、主演を務める叔母と共演した。以後、「大女優の姪」として女優の他にモデル歌手など様々な活動を展開した。

歌手業では1982年に日本アルファレコードから日本語歌詞のポップスを多数収録したアルバムを限定リリース、日本のみの展開という事もあって欧米諸国で話題を集めた[1]。モデル業では肉感的な体を武器にしていた叔母ソフィアに倣ってグラマー写真を中心に活動[2]、イタリア版及びドイツ版PLAYBOYではヌード撮影にも挑んでいる[3][4]

精力的な芸能活動の傍ら、学業ではアメリカンスクールを経てローマ・ラ・サピエンツァ大学医学部に入校して医師免許取を取得、1986年に修士課程も修了している。1989年、税関吏マウロ・フロリアーニと結婚、翌年にイスラエル映画『הדרך לעין חרוד』(Ha-Derech L'Ein Harod)を最後に芸能界からは引退した。引退後は医師活動と家庭生活に専念して、外科医として勤務しつつカテリーナ、クラリッサ、ロマーノの一男二女を育てた。その際、子供たちが母方の姓も名乗れるようにするための複雑な法的手続きを行っている。

政界進出

1992年、共和ファシスト党(PFR)の後継政党であるイタリア社会運動(MSI)からムッソリーニの孫娘として下院選挙のカンパニア州ナポリ選挙区に擁立され、新人候補ながら初当選を勝ち取って下院議員となった。1993年11月、今度はナポリ市長選挙に出馬したが、これはイタリア民主党アントニオ・バッソリーノ候補に敗れて落選した。1994年、ナポリ選挙区の下院議員に再選され、再選回数を重ねていく。

1990年代から2000年代にかけて行われたジャンフランコ・フィーニ書記長による穏健化改革が進み、イタリア社会運動国民同盟(AN)に再編され、2001年には悲願であった政権参加が達成される。こうした中で一旦は国民同盟に加わったが、次第にファシズム運動の穏健化を進めるフィーニとの政治的対立が生じる様になった。特に副首相となったフィーニがイスラエル訪問時にファシスト政権時代の行為について『まったくの悪 (the absolute evil) 』と謝罪した事に激怒し[5]、国民同盟から離党した。離党後は個人政党として社会行動(AS)を結党、実質的には無所属議員として活動した。

2004年下院から欧州議会への鞍替え出馬を行うべく他のネオ・ファシスト運動と連携して「社会的選択 (Alternativa Sociale) 」を結成、中部イタリア選挙区で当選して欧州議会議員となった。離党の原因となったイスラエルやユダヤ教徒との友好については賛意を示している他[6]、社会行動自体も同性婚の容認など幾分進歩的な政策を標榜するなど、自身も穏健派のファシストとして行動した[7][8][9][10][11][12][13][14]。一方で2006年に下院選挙に復帰した際、対立候補となったウラジーミル・ルクスリア議員(トランスジェンダーとして初めてイタリア議会に当選)に対して「ホモオカマよりもファシストになる方がよい(Meglio fascista che frocio)」という差別的なキャンペーンも行っている[15]。同年の選挙で当選して欧州議会議員から下院議員に復帰した。

2007年、欧州会派「アイデンティティ、伝統、主権」の不法移民問題についての会合で「ルーマニア人は不法滞在しか職業がない」と罵倒した事で大ルーマニア党の党首と口論になり、大ルーマニア党は会派を離脱した[16]

2009年フォルツァ・イタリア党と国民同盟を母体とする新党「自由の人民」が結党されると、社会行動も提案を受け入れて合流した[17]。自由の人民内では旧国民同盟党系の議員よりもフォルツァ・イタリア党系の議員と行動し、2013年に自由の人民が分裂すると再結党されたフォルツァ・イタリア党に参加した。

略歴

ディスコグラフィー

アルバム

  • 1982年 「アモーレ」(Amore) (アルファレコード ALFA ALR 22002)

シングル

  • 1982年 「ラヴ・イズ・ラヴ」("Love Is Love") (アルファレコード ALFA ALR 755)
  • 1982年 「Tokio Fantasy」(アルファレコード ALFA ALR 756)

出典

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  14. テンプレート:Cite web
  15. "Mussolini a Vladimir Luxuria 'Meglio fascista che frocio'", La Repubblica, 9 March 2006 テンプレート:It icon
  16. "Xenophobia destroys EU's ultra-rightwing MEP group", The Guardian, 15 November 2007
  17. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「chamberSite」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません

外部リンク