アルテュール1世 (ブルターニュ公)

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アルテュール1世(Arthur Ier de Bretagne, ブルトン語:Arzhur Iañ, 1187年3月29日 - 1203年4月)は、ブルターニュ(在位:1194年 - 1203年)。イングランドの王族で、英語名はアーサー・オブ・ブリタニー(Arthur of Brittany)。父はイングランド国王ヘンリー2世の四男ブルターニュ公ジョフロワ2世(ジェフリー)。母はケルト系のブルターニュ公コナン4世の唯一の子コンスタンス。正式な立太子はされなかったものの、伯父リチャード1世は一時期、アルテュールを自身の後継者と考えていた。

1186年、アルテュールが生まれる以前に父ジョフロワが、フランス王フィリップ2世がパリで開催した馬上槍試合での傷により急死する。夫の死後、その忘れ形見として出生した息子に、母コンスタンスは騎士道物語から得た名前を授けた。その後、本来はコンスタンスがブルターニュを統治するはずだったが、1188年、ヘンリー2世はコンスタンスを、イングランドに領土をもつチェスター伯ラヌルフと再婚させた。1191年、ヘンリー2世の死後即位したリチャード1世は未婚であり、アルテュールを自身の後継者として指名したが、同年、ナバラ王女ベレンガリアと結婚した。1194年、ブルターニュの独立を重んじたコンスタンスは、7歳のアルテュールにブルターニュ公の継承を宣言させ、かつての夫でアルテュールの父のジョフロワがそうであったように、フランス王フィリップ2世と同盟関係を結ぶことにした。

ブルターニュはフランス王国内であり、ブルターニュ公はフランス王に臣従する諸侯の一つであるため、それ自体には問題はないはずであった。また、プランタジネット王家自体が元々はフランスのアンジュー伯家であって、フランスで生まれ育ったヘンリー2世やリチャード1世にしても、その治世の最大の関心事は大陸側にある領土問題であった。だが、この頃からリチャードとフィリップ2世の対立が深刻化し、やがて両者は戦いに突入した。

1199年、リチャードが嫡子のないままアキテーヌで戦死すると、フィリップ2世の干渉を憂慮したイングランドの貴族は、最終的なリチャードの遺言どおり王弟ジョンの王位継承を決定した。だが、アルテュールとブルターニュの貴族は、ジョンはアルテュールの父ジョフロワ2世の弟にしかすぎず、王位を継ぐ資格はないとしてアンジュー伯領をおさえ、大陸側のプランタジネット領諸侯の協力も得て、イングランド王位を主張した。この際、アルテュールの祖母にあたるアリエノールは、アキテーヌをおさえジョンを支持しており、ジョンはイングランドへ渡り戴冠した。

その後も、1200年のジョンの強引な結婚からフィリップ2世がアルテュールに大陸側の領土を与える事態を招くなど、両者の対立は続いたが、1202年、アルテュールはミルボー城のアリエノールを捕らえようとして、逆に援軍に駆けつけたジョンの軍勢に捕らえられ、ルーアンに幽閉されてしまう。1203年4月、アルテュールは消息不明となり、ジョンの指示によって暗殺されたのだという噂が流れた。真相は不明だが、このことによってイングランド・大陸側双方の貴族たちにジョンに対する失望が強まり、やがてフィリップ2世による大陸側のプランタジネット家領の没収へと繋がっていくのである。

先代:
コンスタンス
リッチモンド伯
1187年 - 1203年
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ブルターニュ</br>50px
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