かごめかごめ

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テンプレート:Side box かごめかごめ(籠目籠目)は、こどもの遊びの一つ。または、その時に歌う。「細取・小間取(こまどり)」「子捕り・子取り(こどり)」「子をとろ子とろ」とも言う[1]

「目隠し鬼」などと同じく、大人の宗教儀礼を子供が真似たものとされる[2]

概要

は目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。歌が終わった時に鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。各地方で異なった歌詞が伝わっていたが、昭和初期に山中直治によって記録された千葉県野田市地方の歌が全国へと伝わり現在に至った。 野田市が発祥地といわれることから、東武野田線清水公園駅の前に「かごめの唄の碑」が建立されている。

歌詞

地方により歌詞が異なる。

  • かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀滑った 後ろの正面だあれ?
  • かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀滑った 後ろの正面だあれ?
  • かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が統べった 後ろの正面だあれ?
  • かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるつる滑った 鍋の鍋の底抜け 底抜いてたもれ
  • かごめかごめ 籠の中の鳥は いつもかつもお鳴きゃぁる(お鳴きやる) 八日の晩に 鶴と亀が滑ったとさ、 ひと山 ふた山 み山 越えて ヤイトを すえて やれ 熱つ や(お灸を据えて、やれ熱や)
  • 籠目籠目 加護の中の鳥居は いついつ出会う 夜明けの番人 つるっと亀が滑った 後ろの少年だあれ?
  • かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの番人 鶴と亀が滑った 後ろの少年だあれ?

なお、文献では、このかごめかごめは江戸中期以降に現れる。『後ろの正面』という表現は、明治末期以前の文献では確認されていない。さらに、『鶴と亀』『滑った』についても、明治以前の文献で確認されていない。

現存する文献

「竹堂随筆」
竹堂随筆(ちくどうずいしゅう):文政3年(1820年)頃に編纂)[3]
浅草覚吽院に住した修験僧「行智」の編んだ童謡集で、宝暦・明和年間(1751年 - 1772年)頃に収録された童謡集
「かァごめかごめ。かーごのなかの鳥は。いついつでやる。夜あけのばんに。
つるつるつっペぇつた。なべのなべのそこぬけ。そこぬいてーたーァもれ。」
「戻橋背御摂」
戻橋背御摂(もどりばしせなのごひいき):文化10年(1813年)、江戸市村座で初演された歌舞伎芝居
鶴屋南北の作で、芝居に取り入れた子供の遊び唄。戻橋背御摂に関しては大南北全集(春陽堂)、鶴屋南北全集(三一書房)などで確認できる。
「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつっはいた」(大南北全集)
「かご目かご目篭の中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩につるつるつるはいつた」(鶴屋南北全集)
「月花茲友鳥」
月花茲友鳥(つきとはなここにともどり):文政6年(1823年)、市村座で初演された浄瑠璃。
清元全集(日本音曲全集刊行會)、日本歌謡集成(春秋社)などで確認できる。
「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつるつゝぱつた」
「幼稚遊昔雛形」
幼稚遊昔雛形(おさなあそびむかしのひながた):天保15年(1844年)に刊行された万亭応賀編の童謡童遊集
「かごめ かごめ かごのなかへ(の)とりは いついつねやる
よあけのまえに つるつるつッペッた
なべの なべの そこぬけ そこぬけたらどんかちこ そこいれてたもれ(孫引き)」
「俚謡集拾遺」
俚謡集拾遺(りようしゅうしゅうい):1915年(大正4年)刊行
1905年(明治38年)、文部省により各都道府県から集められ、1914年(大正3年)に刊行された「俚謡集」に収録されなかったものを集めたのが俚謡集拾遺である。
「籠目かごめ、籠の中の鳥は、いついつでやる、夜明けの晩に、ツルツル辷(つ)ウベッた。」(東京)
「籠目かごめ、籠の中のますは、何時何時出やる、十日の晩に、鶴亀ひきこめひきこめ。」(長野県)
「かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、よあけの晩げつゝらつゥ」(新潟県)

「かごめかごめ」に関する俗説

テンプレート:独自研究 この歌の歌詞が表現する一風変わった(ある意味神秘的な)光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がある。ただ、『鶴と亀』以降の表現は明治期以降に成立したと思われるため、それらの解釈に古い起源などを求めることは困難である。また、この歌の発祥の地についても不詳である。

姑によって後ろから突き飛ばされ流産する妊婦や、監視された環境から抜け出せない遊女徳川埋蔵金の所在を謡ったものとする俗説などがある。

歌詞の解釈

解釈に際しては、歌詞を文節毎に区切り、それぞれを何かの例えであると推定し、その後で全体像を論じる形をとっているものが多い。以下に一部を紹介する。

「かごめ」

  • 籠目、すなわち竹で編まれた籠の編み目を表す。
  • 「囲め」が訛ったもの。つまり、かごめ遊びをする際に、皆で「囲め、囲め」と呼び合っている。
  • 「屈め」が訛ったもの。つまり、かごめ遊びをする際に、オニに対して「屈め、屈め」と言っている[4]
  • 籠目の形、すなわち六角形のことである。
  • 籠目の形、すなわち六芒星のことである。
  • 「籠女」と書き、見た目が籠を抱いているような女性、すなわち妊婦のことである。
  • 「カーゴ(Cargo)」に乗る役目。
  • 処刑場を囲んだ竹垣を表している。

「かごのなかのとり」

  • 「籠の中の鳥」であり、当時の風俗から考えて鳥は鶏である。
  • かごめ遊びの中で、オニとなった人を「籠の中の鳥」に喩えている。
  • 「籠の中の鳥居」と解釈し、籠に囲まれた小さな鳥居、もしくは竹垣に囲まれた神社を表している。
  • ある点を籠目の形(六角形または五芒星)に結んで出来た図形の中心に存在する物を指している。
  • 籠目の形をした空間の中心に存在する物を指している。
  • 籠女の中にいるもの、つまり胎児のことを指す。
  • 子供のことである。
  • 「とり」=トリをとる人。祭り等で、最後の締めをやる人。最後尾に就いて、取り溢しが無いように皆を追い上げて、締めをする人。
  • 処刑されることが決まっている牢屋の中の罪人

「いついつでやる」

  • 「何時、何時、出会う」であり、「何時になったら出会うの?」「いつになったら出て来るの?」と疑問を投げかけている。
  • 「何時、何時、出遣る」であり、「何時になったら出て行くの?」と疑問を投げかけている。
  • 「何時、何時、出遣る」であり、「何時になったら出て行けるの?」と疑問を投げかけている。
  • 「何時、何時、出遣る」であり、「いつ、出現するか?」「いつ、出て来るのか?」と疑問を投げかけている。
  • 「何時、何時、出やる」であり、「何時になったら出るのかな?」と疑問を投げかけるのであるが、「出やる」の「やる」は西日本で、目下の者や愛玩動物に対して親しみを込めて使う敬語的語彙であり、共通語で的確な訳語がないが、「出やがる」に親しみのニュアンスを持たせたとでも云うべき意味を持つ。
  • 「何時、何時、出遣る」であり、「(罪人が処刑されるために)いつ(牢屋の外に)出て来るのか?」と疑問を投げかけている。

「よあけのばんに」

  • 「夜明けの晩」つまり「夜明け=夜の終り、朝の始まり」「晩=夕暮れ、夜」であり、「真夜中過ぎ」を指している。
  • 「夜明けの番人」であり、籠の中の鳥、つまり鶏のことである。
  • 「夜明けの晩に」は「夜明けから晩に至るまで」という意味であり、「朝早くから夜遅くまで」という時間の経過を表している。
  • 「夜明けの晩」つまりは光を見る前であり、胎児からの視点では臨月に当たる。
  • 「夜明け」は夜が明けたときで、「晩」は夜のこと。つまり「夜明けの晩」とは存在しない時間のこと。
  • 「夜明けの晩」つまり「夜明け」の「晩=終り(朝が始まりなら晩は終り)」であり、「夜が明ける終りの部分」つまり「日の出=日光を見る(日光東照宮の方向を見る)」を指している。
  • 「夜明けの晩」つまり「夜明けとも言える晩」であり、午前4時前後の時間帯を指している。

「つるとかめがすべった」

  • 「鶴と亀が滑った」であり、縁起の良い象徴の2つが滑るということで、吉兆(もしくは凶兆)を表している。
  • 「鶴と亀が統べた」であり、鶴および亀に象徴される為政者(または建造物)を表している。
  • 「鶴と亀が統べった」であり、鶴および亀に象徴される為政者が、「統治した」と「滑った」を掛けてある。
  • 京都に伝わる童謡の歌詞「つるつる つっぱいた」が変化したもので、「ずるずると引っ張った」という意味である。
  • 清元節浄瑠璃「月花茲友鳥」より、「つるつるつるつっぱいた」が変化したもので、「するすると突っ込んで入っていった」という意味である。
  • 「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴である2つが滑るということで、死を表している。
  • 敦賀亀岡を統べるで明智光秀が統治。
  • 「鶴と亀」とは、日光東照宮御宝塔(御墓所)の真前に(側近くに)置かれている「鶴(飛ぶ=天)」と「亀(泳ぐ=海)」のことであり、徳川家康の側近つまり天海が「統治する(陰で操る)」という意味である。
  • 「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴の2つが滑るということで、罪人の命運が尽きること(=処刑されること)を表している。

「うしろのしょうめん だあれ」

  • 「後ろの正面」は、真後ろを表し、「真後ろにいるのは誰?」と問いている。
  • 「後ろの正面、誰?」は、「後ろを向いた時に正面に居る人は誰?」との意味。転じて、逆の存在・影の指揮者・取り憑いていた存在等を表す。
  • 江戸時代、京都で「正面」と言えば方広寺大仏殿を指し、正面の後ろに葬られた人物(豊臣秀吉)を連想させている。
  • 斬首された首が転がって、体は正面を向いているけれど首が後ろを向いて、「私を殺したのは誰?」と問ている。
  • または、死んだことに気付かず目の前の首がない体は誰のものだろうと疑問に思っている様子を表している。
  • ただし、この「しょうめん」の部分の歌詞は、一部の地域では「しょうねん(少年)」とする場合もある。
  • 「後ろの正面」は、真後ろを表し、「(罪人の首を斬るために)真後ろに立つのは誰?」と尋ねている。
  • 明智光秀の出身地(岐阜県可児市)から日光(日光東照宮)[5]の方向を向くと、「後ろの正面」はちょうど、日本で唯一、明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺[6] がある大阪府岸和田市貝塚市)になる[7]

歌全体の解釈

元々児童遊戯の歌として成立したとする説(国語辞典などが採用)
籠の中の鳥=オニであり、「囲め、囲め、オニの人は何時になったら次の人と交代して出て来ることができるのでしょうか。後ろの正面は誰?」と解釈する。ただし「鶴と亀がすべった」の部分については「語呂やリズムを合わせる為」と曖昧にしているものが多い。
遊女説(提唱者不明)
一日中(夜明けの晩に)男性の相手をさせられ(鶴と亀が滑った)、いつここから抜け出せるのだろう(いついつ出やる)と嘆いているうちにもう次の相手の顔(後ろの正面だあれ)が見え隠れしている、という自由のない遊女(籠の中の鳥)の悲哀を表している。
日光東照宮説(提唱者不明。埋蔵金と結びつけてテレビ番組等で紹介されている)
日光東照宮の三神庫と呼ばれる建築物群や奥院には鶴と亀が対になって飾られている所があり、歌詞中の「鶴と亀が統べった」はこの彫刻を指しているとしている。
豊國廟説(宮本健次など)
正面とは京都の豊国神社周辺(現在の正面通り)を指し、徳川家康を神格化する際に邪魔となった豊臣秀吉を神の座から引き摺り降ろす為に行われた、豊国神社の打ち壊しと、秀吉の棺を掘り返して庶民と同じ屈葬にして埋め直した事件を表したものである。
芦名埋蔵金説(提唱者不明)
「鶴と亀」はそれぞれ芦名家の城の別名であり、埋蔵金の隠し場所を示している。
陰謀説(提唱者不明)
「かごめ」は籠女と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちて流産してしまった。自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。
囚人説(提唱者不明)
かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。籠の中の鳥=オニは囚人である。鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。
明智光秀・南光坊天海同一人物説(岩辺晃三
南光坊天海の正体が、山崎の戦いに敗れた後も生き延びた明智光秀であることを示唆しているとする説[8]。鶴と亀には、日光東照宮の彫刻の他に敦賀亀岡の意味もあるとする。ただし前述のように、「鶴と亀」の部分が明治期以前に存在していたことを示す文献は確認されていない。
神示説(提唱者不明)
「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。

歌詞解釈以外の俗説

降霊術説
「カゴの中の鳥は」と歌っているところで円の中に人がいなければ霊を呼び出すという、コックリさんと同様の交霊術に使われる歌であるという説もある。
呪術説
真ん中の子供に神様を宿らせるまじないであったとする説。
遊戯説
影の支配者を当てる遊戯。

出典・脚注

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参考文献

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関連項目

  • 『広辞苑-第五版』、岩波書店。
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  • 原書は活字に起こされ「続日本歌謡集成」東京堂出版(1961年(昭和36年) - 1964年(昭和39年))にて出版。
  • この説をとるものとして、例えば、柳田國男「こども風土記」がある(定本柳田國男全集21巻8頁)。
  • 日光の輪王寺慈眼堂には天海の廟所がある。
  • もと貝塚市鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。
  • 「陰謀と暗号の歴史ミステリー」平成20年4月15日発行 SAKURA MOOK33 編集発行人 西塚裕一 発行所 株式会社笠倉出版社
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