板戸
板戸(いたど)は建具の一種で、板で作られた戸、扉。主に木の板で作られるが、一部にガラスや布・紙などを用いるものもある。
目次
板戸(建具)の歴史
飛鳥・奈良時代の建具
法隆寺
現存する日本最古の木造建築は、斑鳩寺ともいわれ聖徳太子建立607年頃の、奈良の法隆寺である。現存する法隆寺西院伽藍(金堂含む)は、一度火災で焼失した後、7世紀末頃に再建されたものであることが定説となっているが、法隆寺金堂の中の扉が、一応現存する最古の扉といえる。しかし、昭和修理の時に火災で初層内部を焼損し、二枚を張り合わせて一枚の扉に復元されている。当初の扉は、高さ3m幅約1m厚さ約10cmの、檜(ひのき)の節なしの一枚板であった。
金堂よりおくれて奈良時代に建立された、金堂裳階の四面の扉は現存している。やはり一枚板で、高さ2.7m幅1m厚さ約8.5cmの大きさで、下部に唄ばい金銅の飾り金具を打ち上部に連子窓を設けている。この連子窓の九本の連子は、一枚板から彫りだしたものであるという。大変な労力を費やした扉である。
法隆寺建立から約150年後に創建された鑑真ゆかりの寺唐招提寺(759年創建)の金堂は、鑑真の没後、8世紀末頃の建築と推定される。唐招提寺金堂の扉は、幅の狭い板を五枚縦に並べて、裏桟に釘どめした板桟戸構造になっている。扉の表面に出た釘頭を隠す為に、饅頭型の木製漆塗りの飾りを付け、扉全体の変形を防止するため金銅八双金具(装飾と補強を兼ねた建築金具の一種)を、取り付けている。
奈良時代の住宅の一部で現存するものは、やはり法隆寺の東院伝法堂である。伝法堂は、元来聖武天皇の橘夫人の邸宅の一部であったものが聖徳太子の斑鳩宮の跡である法隆寺東院に寄進されたものである。仏堂にするため一部改造されているが、当時の寺院建築にみられるような、板敷を除けば唐の強い影響を受けた建築構造となっている。
伝法堂の前身建物は妻入り(屋根の妻側を正面とする)で、平面構造は、桁行(奥行)三間、梁行(幅)四間の壁と扉で閉ざされた主室部分と、桁行二間梁行四間の開放的部分とそれにつづく広い簀子(すのこ)敷から構成されている。空間を間仕切るものとしては壁と扉しかなく、内部間仕切りのない、広間様式の建築構造となっている。 伝法堂は、当時の建築としては珍しく、柱に礎石を用いているが、奈良時代の平城京では、ほとんどの建物が古墳時代と同様な掘立柱であった。
これらの建物は梁行二間の母屋(もや:主構造が柱と屋根の屋)だけで作られており、廂(ひさし)がまだ発達していない簡素な様式であった。
広間様式の建築
『正倉院文書』によって知られる藤原豊成の板殿がある。文書によって復元される構成は、桁行五間梁行三間で、壁と連子窓と扉で囲われた室部分と前後の広い板敷から構成されている。
この藤原豊成の板殿も、やはり内部間仕切りのない広間様式の建築であった。基本的な工法は伝統的な在来工法を用いているが、扉口や連子窓などは大陸の技術によっている。
つまり、この時代までは開口部を作る独自の技術がなかったと判断される。伝法堂も板殿もいずれも、建具としては共通して唐様式の扉しかなく、内部空間を仕切る建具がなかったのが、奈良時代の建築の特徴といえるであろう。
奈良時代には、衝立や簾、几帳のような可動式の「障子」が使用されていた。衝立状のものとしては、奈良時代の『法隆寺縁起并資材帖』に、高さ7尺巾3尺5寸で、表が紫綾織り張り、裏面が縹(はなだ:青色)の裂地(きれじ)張りであったと記録されている。木製の格子を骨組みとして、両面に絹布を張り衝立て状に台脚の上に立てたものである。一般的には軽い杉板を台脚の上に立てた衝立てが、主流であった。
平安時代の建具
寝殿造りと建具
平安時代の貴族の邸宅の典型は、寝殿造りである。 寝殿造りの建物は、現存していないが、京都御所の紫宸殿と清涼殿は、平安時代後期の形式を再現しているという。
平安宮内裏の正殿である紫宸殿は、正面九間の母屋の四方に廂(ひさし)の間を設けた間取りであり、外部との仕切りの建具は四隅と北廂中央に妻戸を開く他、柱間に一枚の大きな蔀戸を設け、昼間は内側に釣り上げて開く。
妻戸とは、扉の事で、建物に対して、妻のような役割から妻戸という。紫宸殿の妻戸は、二枚の板を接ぎ合せ、裏桟の替わりに上下に端喰み(はしばみ)という細長い台形の横板を入れて板を固定したもので、手のこんだ作りとなっている。
蔀(しとみ)戸は、格子を組み間に板を挟む板戸で、水平に跳ね上げて開く。内部の仕切りとして、母屋と北廂の間の境に「賢聖の障子」を設け、母屋と西廂の間は壁で仕切られている。この障子は、今日の明かり障子ではなく、絹布を貼った可動式の嵌め込み式の板壁で室礼(しつらい)として用いられ、時に応じて設置されるものであった。絹布に賢聖を描いていたので、「賢聖の障子」の名がある。紫宸殿は、平安京の大内裏の正殿で、朝賀・公事を行なう所で、のち大礼も行なわれた。
そして、中央間と東西第二間の三ヶ所に「障子戸」が設けられていたという。その外はすべて蔀戸で仕切られているが、これ以外に仕切りの無い広間様式である。
清涼殿は、天皇の起臥する室であったので、細かく仕切られているが、建具の使用状況は、紫宸殿と同じで、側面と塗篭めに妻戸(とびら)を設け周囲は蔀戸を釣っていた。塗篭めは、周囲を厚く土壁で塗りこめた部屋で、納戸や寝室として使われた。この他、東孫廂(まごひさし)の見通しを遮るために「昆明池の障子」が置かれていた。この障子は、衝立てで、漢の武帝が水軍訓練のため、長安城の西に掘らせた昆明池を描いた衝立てである。さらに、春夏秋冬の儀式を描き上げた年中行事障子(衝立障子)が、殿上の間の戸口の前に置かれていた。
「障子」とは古くは、間仕切りの総称であった。「障」とは、間をさえぎるの意であり、「子」は小さいものや道具につけられる接尾語である。衝立、屏風(びょうぶ)、簾(みす)、几帳あるいは、室外との仕切の唐戸(扉の一種)、舞良戸(板戸の一種)、蔀戸等の総称であった。
襖障子(ふすましょうじ)の誕生
テンプレート:Main 清涼殿に有名な「荒海障子」があった。この唐風の異形の怪人を描いた墨絵の障子は、衝立て障子ではなく、引き違いの障子、すなわち襖障子であったと見られている。
『枕草子』にも
- 「清涼殿の丑寅のすみの、北のへだてなる御障子は、荒海の絵、生きたる物どものおそろしげな・・・」
とある。
また江戸時代の『鳳闕見聞図説』には、明らかに引き違いの襖障子として、「荒海障子」が描かれている。この唐絵の裏面には、宇治の網代木に紅葉のかかった大和絵が描かれていた。
これが資料的に確かな、最古の引き違い戸の襖障子である。
この「荒海障子」すなわち、襖建具の誕生の年代を、各資料から推測してみたい。
『拾遣集』に
- 「寛和二年(986年)清涼殿のみしょうじに網代書けるところ・・・」
とあり、九八六年以前から、存在していた事になる。
九七九年成立の『落窪物語』に
- 「隔ての障子をあけて出づれば、閉すべき心もおぼつかず」
- 「中隔ての障子をあけ給ふに」
などとあるから、へだての障子は襖障子と解釈できる。
この頃には、一般の貴族の邸宅にも、引き違いの襖障子があった事になり、清涼殿の、みしょうじすなわち「荒海障子」はこれ以前に存在していたと考えられる。
『歌仙家集本貫之集』の承平六年(936年)春の歌に
とある。これは間仕切りとしての障子の使用である。嵌め込み式の板戸よりも、引き違いの襖障子の方が自然である。これに従えば、九三六年以前に、引き違い襖障子が有ったことになる。
『扶桑略記』に仁和四年(888年)宇多天皇勅して、巨勢金岡(こせのかなおか)に弘仁年間(810~823年)以降の詩文にすぐれた儒者の影像を、御所の障子に描かせたとある。
御所南廂の東西の障子とあるが、衝立て障子であったか、襖障子であったかは定かではない。
巨勢金岡の経歴は不詳ながら、絵の達人で大和絵の創始者とされており、時の関白藤原基経の依頼で屏風に大和絵を描いている。
一方、紫宸殿の母屋と北廂の間の境に「賢聖の障子」があった事は前に述べた。
「賢聖の障子」の成立の確かな資料は、『日本紀略』延長七年(929年)の条に、
- 「少内記 小野道風をして紫宸殿障子を賢聖像に改書せしむ。先年道風書く所なり」
とあり、この以前から存在していたことになる。
書き改めるには少なくとも十年以上の歳月を経て、顔料の劣化や色醒めがあったと考えられるから、延喜年間(901~914年)には作成されていた事は間違いない。
「賢聖の障子」は、嵌め込み式の板壁に絹布を張ったものである。
東西各四間の柱間ごとにそれぞれ四人ずつ合計三十二人の賢聖の像を描いたものであった。
そして、中央間と東西第二間の三ヶ所に「障子戸」が設けられていたという。
この「障子戸」が開閉式の障子の最初とみられているが、一説によると扉形式で、引き違い戸ではなかったともいう。しかしながら、室礼(しつらい)としての「賢聖の障子」は、取り外される事が前提の嵌め込み式である事を考えると、出入口として設けた「障子戸」が、固定式の扉であっては都合が悪い。
『江家次第』によると、
- 「北御障子(賢聖の障子)は、近頃の慣行では、公事の日を除いて取り外している」
とある。可動式の(取り外し可能な)板壁の建具技術は、湿度の高い日本の風土から必然的に生み出された工夫ではあり、唐様式にはない実に革新的な建具技術であった。
敷居と鴨居にそれぞれ一本の樋(溝)を設け、鴨居の溝を敷居の溝よりも深く彫る事によって建具を落とし込み、必要に応じて取り外すことができるように工夫された。技術的には、固定式の壁や扉様式建築に比較し、革新的なものであった。
更に樋を二本彫り引き違いにする事は、技術論的には類似技術であり、革新的技術の応用に過ぎないと考えられる。このように技術論的に考察すれば、「賢聖の障子」と同時に立てた「障子戸」が引き違いの襖障子であったと考えられる。
- 「紫宸殿障子を賢聖像に改書せしむ。」
の記述から、「賢聖の障子」と、同時に立てた「障子戸」すなわち襖建具の誕生の年代は、延喜年間(901~914年)であると推測される。
物語の出できはじめと、建具
- 「物語の出できはじめの親なる『竹取の翁』」
という表現で、『竹取物語』が歴史的に最初の物語文学である事が、『源氏物語』の中に語られている。『竹取物語』は、作者不詳で成立年代も未詳だが、900年頃より以前の成立とされている。『竹取物語』は、その形態は求婚物語であるが、その事は措く。
- 「いまは昔、竹取りの翁といふものありけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使いけり。」
この竹取の翁が、かぐや姫を竹のなかから見つけだす所から物語は始まり、そののち、竹のなかより黄金を見つけること度重なり、だんだんと物豊かになり、ついに長者となって建てた邸宅のしつらいは、贅を尽くしたものとなった。
- 「うちうちのしつらいには いうべくもあらぬ綾織物に絵をかきて間まいに張りたり」
とある。「しつらい(室礼、舗設)」とは、元来晴れの儀式や請客饗宴の日に、寝殿の母屋や廂(ひさし)に調度を整え、飾りつける事をいう。 当初は、天皇の御座所を指したらしい。やがて、寝殿造りの貴族の邸宅にも、室礼が設けられるようになった。
『竹取物語』の描写によれば、
- 「綾織物に絵をかきて間毎に張りたり」
とある。間毎つまり部屋ごとにとなると、間仕切りの障子と考えられ、母屋と廂の柱間の板壁だけとは考えにくい。
後世の作ながら、「竹取り物語図」や奈良絵本「竹取り物語」では、引き違いの襖や舞良戸などが描かれている。
大広間形式の寝殿造りの、内部空間を間仕切る建具の発明は、マルチパーパスの大きな内部空間から、特定の機能目的を備えた少空間への分離独立へ展開していく、大きな契機であり、寝殿造りの住宅の公と私の明確な分離に基づく、住まい方の変化をもたらした重大な建築様式の革新であった。
嵌め込み式の障子(副障子)と引き違いの障子とは、ほぼ同時期の発明と考えると、『竹取物語』の成立時にはすでに一部の上流階級の邸宅には、引き違いの襖があった事になる。 傍証ながら引き違いの襖障子の誕生年代は、仁和年間(884~888年)まで遡ることが可能と思われる。
『万葉集』の中に、「衾:ふすま」と「引き手」を懸け言葉に使用したと思われる柿本人麿の歌がある。
- 「衾道乎 引手乃山爾 妹乎還而 山往者 生跡毛無」
(ふすまみちを ひきてのやまに つまをかえして やまじをいけば いきたここちもなし)
この歌は、人麿が亡き妻をこの地に葬って(土に還して)、山路を帰る時の侘しさはかなさを歌ったものであるという。
この歌を資料的に採用すれば、万葉集の成立は771年頃である。 人麿の活躍年代から推測して大宝律令(701年)制定の前後にこの歌が詠まれたとすると、その時代にごく限られた所、例えば御所の衾所(ふすまどころ寝所)などに「衾障子」があったと推測される。 このごく限られた所にしかなかった「衾障子」に憧れて、あえて歌に詠みこむ事をしたのではないかとも想像できる。しかしながら、この歌の解釈にはさまざまな異論もあるようで、襖障子の誕生を一気に百数十年も遡るのは、大変魅力的ではあるが、やや冒険的であるかも知れない。
遣戸、舞良戸の誕生
『源氏物語』には、遣戸(やりど)という表現が出てくる。貴族の邸宅や寺院建築に「遣戸」が主として外回りの隔て建具として使用され始めたが、間仕切りとしても使用されていたようだ。
『源氏物語絵巻』には、その「遣戸」が描かれている。敷居と鴨居の間に建てられた、引き違いの舞良戸である。「遣戸」「舞良戸」は、周囲の框に入子板を張り、舞良子(桟)を取り付けた板戸である。妻戸を軽量化した発展的形態と考えられる。軽量化された舞良戸は便利な建具として、さまざまな意匠が工夫され、開き戸や引き違い戸として多用されていった。舞良子(桟)は、片面又は両面に、横桟または縦桟として、等間隔や吹き寄せなど、さまざまな意匠を工夫して取り付けられた。
敷居と鴨居を設けて樋(みぞ)を彫った、可動式の板壁の発明が契機となり、建具技術の革新と応用発展が一気に開花し、引き違い戸の襖障子や遣戸を工夫発明していった。
遣戸という言葉は、それ自体が引戸の意味であるが、襖障子や明かり障子を意味する事はなく、引き違いの舞良戸を意味していたようである。
ふすま障子の当初の形態は、板戸に絹布を張り唐絵や大和絵を描いたものであったと考えられるが、建具の軽量化という技術課題のなかで、框に組子を設け両面に綾絹を張り、軽量化と室礼としての装飾の目的を達する襖建具が誕生したと考えられる。 一方遣戸は、外回りの隔て建具として使用され、妻戸を軽量化した発展的形態と考えられるが、開閉自在の遣戸の誕生は、湿度の高い日本の風土にとって不向きな塗り込めの土壁に代わる革新的建具であった。
明障子(あかりしょうじ)の誕生
テンプレート:Main 「格子」は古文書では、「隔子」と書かれている事が多く、元慶七年(884年)河内国観心寺縁起資財帳によると、如法堂の正面に「隔子戸」四具が建てられていたと記録されている。
戸とあるから、蔀ではなく大陸様式の開き戸であったと考えられる。 寺院建築の正面には扉形式の格子戸が多用されるようになり、さらに『多武峰略記』によると、天禄三年に建立された双堂形式の講堂の内陣の正面に格子戸五間を建て込み、内陣と外陣の間仕切りに格子戸三具を建て込んでいた。
平安時代後期になると、引き違いの格子戸が広く使用されるようになった。『源氏物語絵巻』『年中行事絵巻』などには、黒漆塗りの格子戸を引き違いに使ったり、嵌め込み式に建て込んだ間仕切りの様子が描かれている。天喜元年(1053年)藤原頼通が建立した、平等院鳳凰堂は四周の開口部には扉を設けているが、その内側に格子遣戸もあわせ用いている。このような格子遣戸の用い方は、隔ての機能を果たしながら、採光や通風を得る事ができる。機能としては、明障子の全身ともいうべきものである。
明障子の誕生は、平安末期のころである。六波羅の地には平家一門の邸宅が、甍を競って建ち並んでいた。なかでも平清盛の六波羅泉殿は、その権勢を象徴する豪壮な邸宅であったという。
その復元図によると、従来の寝殿造りとはかなり異なり、間仕切りを多用した機能的合理的工夫がみられる。 その中でも、明障子の使用は画期的な創意工夫であった。室外との隔ては、従来壁面を除き蔀戸や舞良戸が主体であり、開放すると雨風を防ぐ事ができず、誠に不便な建具であった。採光と隔ての機能を果たすため、簾や格子などが使用されていたが、冬期は誠に凌ぎにくいことであった。
京都は盆地でことに冬期の底冷えはつとに有名である。室内では、屏風をめぐらし、几帳で囲み火鉢を抱え込んだと思われる。隔てと採光の機能を充分に果たし、しかも寒風を防ぐ新しい建具として、明障子が誕生した。しかし、明障子のみでは風雨には耐えられないため、舞良戸、蔀、格子などと併せて用いられた。 六波羅泉殿の寝殿北廂の、外回りに明障子が三間にわたって使用されていた。
『山槐記』には、この寝殿や広廂に「明障子を撤去する」とか「明障子を立つ」などの記述もある。平清盛が願文を添えて長寛二年(1164年)厳島神社に奉納した『平家納経』図録には、僧侶の庵室に明障子が描がれている。
この時代の明障子の構造は、四周に框を組み、太い竪桟二本に横桟を四本わたし、片面に絹または薄紙を貼ったものであったという。
寝殿造りの室礼を記した古文書の中に、
- 「柱をたてまわして鴨居を置きてのち、塗子(ぬりこ)の明障子を間ごとに覆う」
とある。『春日権現験絵日記』にも、黒塗りの明障子が描かれている。また、襖障子と同じように、引手に総が付けられている。明障子の歴史的発展の過程で、漆の塗子の縁が寝殿造りに使用され、襖障子と同様な室礼としての位置付けがあった事は、興味深いことである。
框に細い組子骨を用いる現在のような明障子は、鎌倉時代の絵巻物に多く登場するようになるが、多少の時間と技術改良を必要とした。明障子は壊れやすく、現存するものは極めて少ない。
南北朝期康歴二年(1380年)の東寺西院大師堂の再建当時のものとされている明障子が、最古の明障子と言われている。上下の框と桟も同じような幅でできており、縦桟と横桟を交互に編み付ける地獄組子となっており、また桟の見付けと見込みもほぼ同じ寸法でできている。
なお一本の溝に二枚の明障子を引き違いにするという、子持ち障子というものもある。元興寺の鎌倉時代の禅室の明障子が、一本の溝に二枚の明障子を引き違いにしている。当時のみで深い溝を彫るのは、相当の手間であったであろう。二本の溝を彫るよりも、幅の広い溝を一本彫るほうがわずかに簡単であったのであろうか。禅宗様の建築であることから、技巧的な遊びと考えた方が妥当と思われる。
一本の溝に二本の障子を入れても、そのままではどうにもならない。そこで召合わせの縦框はそのままにして柱側の縦框をほぼ溝幅に合わせて作ってある。こうすると明障子は外れることなく、引き違うことができる。ちょっとした工夫である。子持ち障子は、禅宗方丈建築の最古の遺構である、東福寺竜吟庵方丈にも使われている。ここでは、一本の溝に四本の明障子が立てられている。中央の二枚が上記の方法で引き分けられ、外の二枚は幅が狭く、開閉のできない嵌め殺しとなっている。禅宗様の建築では、随所に意匠の工夫や技工の斬新さが見いだされる。
鎌倉・室町時代の建具
桟唐戸の伝来
鎌倉時代に入ると、遣唐使を廃止して以来、途絶えていた大陸との交流が開始され、宋との交易が盛んとなった。また、宋は強大となっていく蒙古の圧迫を受け続け、僧侶の政治亡命が相次ぎ、渡来人が増加していった。平家によって焼かれた、東大寺の再建は、僧重源がもたらした大陸の様式・技術を導入して建築された。仏教建築では、この様式を大仏様(だいぶつよう)といい、のちの禅宗と共に伝わった、新しい仏教建築様式を禅宗様(ぜんしゅうよう)という。
この大陸様式の寺院建築に、新しい建具技術としての桟唐戸が用いられた。桟唐戸とは、四周の框と縦横の数本の桟を組み、桟と框の間に入子板を嵌め込んだ扉である。従来の板桟戸は分厚い板を数枚並べて框の枠を付け、裏桟に釘止めしたものであった。和様の板桟戸に比較して、格段に軽量化が進んだ技術革新であった。この技術革新は、一般住宅には杉障子として応用されている。
重源の大仏様の東大寺開山堂の桟唐戸は、横桟を二本吹き寄せにして、中央に縦桟を配し、桟は山形に鎬(しのぎ)をとっている。禅宗様の桟唐戸は、上部に細い組子の欄間や花狭間を入れ、桟に唐戸面をとるなど、優美な細工を施しているのが特徴である。のちの禅宗様の建築様式は、独特のアーチ形をした曲線を意匠した花灯窓が工夫されている。禅宗建築として代表的な鎌倉の円覚寺舎利殿では、中央は一般的な桟唐戸であるが、両脇の扉が花灯窓を大きく意匠した構えで、内側に桟唐戸を立て込んでいる。正福寺地蔵堂も同様な意匠を採用している。
大陸伝来の唐戸は、奈良法隆寺の一枚板の重厚長大な扉から、鎌倉時代の桟唐戸に至って、建具の軽量化という技術的完成をみるに至った。この時代以降、和様の寺院建築にも採用されはじめ、さまざまな建築の扉の意匠に大きな影響を与えた。
杉障子の誕生
明かり障子は採光の必要から考案された建具である。採光の為に建物の外回りに使用する事となる。しかし、風雨に曝されると薄紙は破れてしまう。
実際の使用状況を絵巻物で見ると、半蔀を釣って内側に明かり障子をたてている。つまり、下半分の蔀は建て込んだままである。こうした実際の使用状況から、明かり障子の雨があたりやすい下半分に板を張った、腰高障子が考案されるには必然の状況であった。腰高はおよそ80cmで、半蔀の下半分と同じ腰高であったのも、必然であった。南北朝時代の観応二年(1351年)に描がれた真宗本願寺覚如の伝記絵『慕帰絵詞』に僧侶の住房に、下半分を舞良戸仕立てにした、腰高障子が二枚引き違いに建てられているのが描かれている。
藤原定家の日記『明月記』嘉禄三年(1227年)の条に、杉板障子に画を描きお終わったので立てたとあり、寛喜二年(1230年)の条には、妻戸西は略儀によって壁を塗らず代わりに杉遣戸を立てるつもりである、とある。
この障子戸は、黒塗りの框に杉の一枚板を嵌め込だ板戸で、杉障子、杉遣戸、杉板障子、杉戸などと呼ばれていた。杉障子には絵を描き、壁の代用にも用いていたことは、室礼としての襖障子の延長とも考えられるが、主に縁側と部屋との仕切りや縁上の仕切りに使用され、また出窓形式の書院の窓にも使用されていた。
杉障子に描かれる絵は、襖障子と同様に時に唐絵が描かれることもあったが、多くは大和絵の花鳥風月や跳ね馬であった。『法然上人絵伝』の杉障子に画中画として描かれている絵は、芦雁や松、竹、梅等が主である。
杉障子の現存する最古のものは、兵庫県の鶴林寺本堂創建当時のもので、室町時代初期の応永四年(1397年)頃のものである。
杉障子は現在は使用されていない建具であるが、実は歌の中では実に馴染みの深いものでもある。学校の卒業式で必ず歌った送別の歌「蛍の光」である。
- 「蛍の光、窓の雪、文読む月日重ねつつ、いつしか年も、杉の戸を開けてぞ今朝は、別れ行く。」
書院造りと建具
広辞苑の「書院造り」の項によると、「室町中期からおこり桃山時代に完成した、武家住宅建築の様式。和風住宅として現在も行なわれている。接客空間が独立し、立派に作ってある。主座敷を上段とし、床・棚・付書院を設ける。柱は角柱で畳を敷きつめ、舞良戸・明障子・襖を用いる」とあり簡潔にして要を得ている。
戦国時代の京都を描いた、町田本や上杉本の「洛中洛外図」屏風には、室町幕府足利将軍の邸宅や細川管領の屋敷も描かれている。寝殿造りとは構成がかなり異なった、成立期の書院造りの建築様式を伝えている。
建具については、腰高明障子や舞良戸そして襖障子などが多く使用されている。足利義政の東山殿会所を復元した平面図によると、建具は全て引き違いとなっており、内部仕切は全て襖障子、外部南面と西面が腰高明障子であつた。
近世初期の書院造りの遺構である、園城寺勧学院客殿(慶長五年1600年)や、光浄院客殿(慶長六年)では、舞良戸の内側には明障子を立て込んでおり、妻戸や蔀戸の内側にも明障子が用いられた。簡素な造りでは、舞良戸と明障子の代わりに、腰高障子で間に合わせることが多かった。
書院造りの特徴は、寝殿造りと比較すると、マルチパーパスの大広間様式から、内部を大小いくつもの室に仕切り、用途に合わせた機能的な構成となった。間仕切りの必要から、柱は丸柱から角柱になり、これまで母屋(身屋:もや)と廂の柱間寸法に大小の別があったが、畳の普及に伴い次第に柱間一間は六・五尺に、応仁の乱以降建物全体を通じて統一されていった。
この時代には一間四方(二畳)を一間といい、六間(むま)といえば畳十二畳の部屋を意味した。主室(座敷)の構成は、正面に床と違棚を設け、縁側寄りに付書院または平書院を設け、反対側に帳台構を造った。建具はほとんど引き違いで、室内の間仕切りは、襖障子が使用され、縁側回りは三本溝の敷居にして、舞良戸の内側に明障子か腰高障子を一枚入れた。また、長押を室内に回して、彫刻欄間などを設けた。
室町時代の中期頃から畳が急速に普及し始め、書院(書院造りの座敷、又は居間兼書斎)などの小室には畳を敷きつめるようになったが、会所などの大広間では、周囲に畳を追回しに敷いて、中央は板敷を残していた。『蒙古襲来絵詞』や『法然上人絵伝』には畳を追回しに敷いた状況が描かれている。そして、畳敷から框の分だけ一段高い上段の間が造られ、身分や地位に応じて使い分けられた。この上段の間を床(とこ)の間といい、現在では掛け軸を掛け生け花を生ける床の間の起源である。
畳は起源的には寝具であったが、平安時代の貴族社会では、そこに座る人の身分地位を表す厳密な用い方が定められ、身分の高い人ほど座る畳も広く厚さも厚く、畳を重ねて使用した。また、畳の縁の色や文様を変えて、身分による厳密な用い方を行なった。室町時代の武家社会でも、畳は地位権力を表す為に、象徴的に利用された。
近世の建具
木割と桂離宮
桂離宮は、江戸時代初期に八條宮智仁親王の別荘として、京の南西の郊外に建てられた。最初に古書院ついで中書院、新御殿と三度の造営で完成をみている。二条城が、純粋な書院造の大成をめざしたのに対し、桂離宮の書院は、純粋の書院造りではなく、数寄屋構えをめざしたと考えられる。桂離宮には木割が存在していない。書院造は元々「木割」をもっているが、数寄屋造にはない。
近世は木割術の発達普及した時代であった。木割とは、柱間(はしらま)を基準に、ほとんどすべての建築各部材の寸法が、その整数比率で定められている。
この柱間とは、柱の中心から中心の間隔をとる「真真制」であった。木割は、部材の比例を体系化した、いわば設計基準であった。これに基づき建物を設計すれば、一応まともな建物ができる事に利点があった。一般住宅や寺社建築に関する木割が普及した。
『匠明』は慶長十五年(1610年)に完成した木割書である。木割書には、主に立面に関する設計基準を言葉で記したものである。木割書は大工の秘伝・家伝であったが、江戸中期ころには木版本などで広く普及する。
一方で、商品流通の必要から、木材は規格化され商品化されていった。畿内地方では、木材は四寸角、長さ十三尺五寸が基準とされた。基準木材の二つ割りを敷居・鴨居に、四つ割りを垂木に、六つ割りを寄せ敷居や鴨居、十二割りを腰の胴縁や天井の棹縁に用いるなどと定められていた。
また畳の普及も商品流通の必要から、必然的に規格寸法化されていた。このため内法制(柱の内がわの寸法を基準とする)が生まれ、長手が六尺三寸、短手が三尺一寸と規格化されていった。
一方、関東地方では、六尺を一間とするため、畳の長手が五尺八寸短手が二尺九寸で、畿内地方の「京間」に対して「田舎間」と称された。 ともかく、畳を中心として柱間寸法が定まり、室の大きさは畳の枚数で表されるようになっていく(畳割制)。
このような、商品流通の事情から、材木や畳、建具の規格化が促進され、大工は、木割を頭に入れておけば、簡単な間取り図さえあれば、設計図面などなしで建物を建てることができた。 このため、住宅は画一化された様式となり、また畿内、中京、関東地方でそれぞれ畳の寸法が異なり、「京間」の六畳に対して、「中京間」は約0.9「田舎間、江戸間」は0.85の広さと、地方によって部屋の広さが異なるようになっていった。
特に、人口が密集した江戸において、最も小さな畳を基準としたのは、家康時代の三河地方では、質素倹約の立場から、京間に対して田舎間と称して意識的に小さな畳を使用させていた。
家康の関東入部に伴い、三河地方の畳職人も江戸に移り、必然的に江戸でも「田舎間」の畳を作り、それが標準となったという。 数寄屋造は、木割とは全く異なった秩序体系をもっていた。 桂離宮は、木割からも木材の規格寸法からも解放されている。
畳の大きさもまちまちであり、柱間の寸法も標準がなく、必然的に建具の寸法もさまざまに作られている。構造的合理性も経済的合理性もなく、自由奔放に作られている。
一貫しているのは、既成の秩序体系を超越した視覚的な美しさである。中書院では柱を三間も抜いて、極端に幅の広い明障子を立て込み、単調な繰り返しを破っている。襖も幅広く、大胆な市松模様に貼り分けている。桂離宮の美しさは、その閑雅な造形と名庭園とが、一体に溶け合っているところにあるといわれている。
桂離宮は、回遊式の庭園が池を中心に展開している。
代表的な建築物は、古書院、中書院、楽器の間、親御殿と雁行して建てられた書院造りの様式をとっている。他に月波楼、松琴亭、まんじ亭、賞花亭、園林堂、笑意軒などの庭園建築がある。
茶室として作事された松琴亭は、庭園の中心をなす造形であり、桂離宮の庭園建築のなかでも白眉である。松琴亭の床の間および襖には、薄藍色と白色の加賀奉書紙が大胆な市松模様に貼り付けられている。
桂離宮は数寄屋風書院造りの頂点に立つ建築でもあり、数寄屋造りと書院造りとの接点であり、書院の茶から数寄屋としての茶室への先駆であつた。
数寄屋造
「茶の湯の座敷を数寄屋と名付事は、堺の宗益云いはじめるなり。」と『匠明』にある。格式を重んじる書院の茶から、俗世間を超越した精神的昂揚を重んじる侘茶が流行して行き、草庵の風情を意匠に取り入れた茶の為の空間が確立されていく。角柱を使い、長押(なげし)を打ち、壁や襖障子に極彩色の金碧障壁画を描く書院造りは、対面儀式にはふさわしいが、日常の生活にはやや堅苦しい。
茶の湯の流行の影響から、面皮柱(丸太の四面を垂直に切り落とし、四隅に丸い部分を残した柱)を使用し、室内も軽妙な意匠を凝らした。 付書院の花頭窓とその上の障子の構成や欄間の釘隠しの意匠そして、襖障子には木版でシンプルな小紋文様をすり込んだ唐紙を使用するなど、さまざまなしゃれた意匠を工夫していった。
このような軽妙な意匠をした建物を公家達が好んで建てた。一般にはこれを数寄屋造りと云う。
茶の湯が中世から近世にかけて流行普及して行き、茶のための独自の建築空間である草庵茶室が造られるようになっていく。その意匠を書院造りに取り入れて数寄屋造りが完成していくが、一方で中世に盛んに行なわれた隠遁者の閑居や、風雅を好む公家達の別荘としての独自の意匠も大きく影響していった。
曼殊院は、京の北東の山裾に位置し、明暦二年に御所の北から寺地を移して建てられたものである。 大書院と小書院とが連なり、ともに数寄屋風の軽妙な意匠で構成されている。
小書院は黄昏の間が主室で、二畳敷の上段の間があり、そこに床と書院を設けている。書院には花頭窓を開け、床の左には厨子を組み込んだ独自の違棚がある。 黄昏の間の次の間が八畳の富士の間で、その西に一畳台目の茶室を設け、黄昏の間の裏手には、八窓席と呼ぶ茶室を付属させている。違棚や釘隠しや欄間などに凝った意匠を取り入れている。特に黄昏の間と富士の間の境の欄間には、菊の紋様を彫り込んだユニークなものである。
西本願寺黒書院は、曼殊院と同時代の建築で、明暦三年に完成している。黒書院は、対面所である白書院の奥に位置し、主室の一の間には正面右手に一間半の床を設け、床柱には面皮柱を使っている。
床の左の書院には花頭窓を開け、その左手前からやや離して違棚を設けている。透かし彫りの棚板や、植物をモチーフとした釘隠しの意匠、そして欄間の彫刻など独自の工夫した意匠で構成されている。
いずれも、同時代の建築であり寺院建築でもあるため、基本的には書院造りであり、その気品を失わず、数寄屋造りの自由で軽妙なしゃれた意匠を随所に取り入れて、日常の風雅な居室として使用された。
茶室
茶が日本に伝わったのは奈良時代である。
禅僧によって抹茶が伝えられるは、鎌倉時代に入ってからであった。
室町時代に入ると、足利将軍に愛用された事もあって武家社会や公家社会に急速に流行していった。 茶は、初めは公家や武士の座敷で行なわれた。この座敷は広間や書院と呼ばれ、そこでの茶を書院の茶と云われた。 名器を並べて観賞し、茶の産地を飲み当てる茶は、その流行のなかから次第に茶をたてて飲む行為そのものに、精神的意義を認めるようになった。 次第に格式を重んじる書院の茶から、俗世間を超越した遊びの空間、茶のための専用の狭い空間を使うことが多くなった。六畳から四畳半さらには二畳と、極小空間を使うことで、精神的に高められた茶の湯を行なうようになっていく。
『南坊録』に、
- 「四畳半座敷は、珠光の作事なり。真座敷とて鳥の子紙の白張付け、杉板のふしなし天井、小板ふき、宝形造、一間床なり。」
とある。茶道の始祖といわれる村田珠光によって四畳半座敷の茶の湯が広められた。 国宝の慈照寺(銀閣寺)東求堂の北東角に、将軍足利義政の茶室として使われた、「同仁斎」がある。
『南坊録』には更に
- 「紹鴎になりて、四畳半座敷ところどころ改め、張り付けを土壁にし、木格子を竹格子にし、障子の腰板をのけ、床の塗りふちをうすぬり、または白木にし、之を草の座敷と申されしなり」
とある。堺の茶人武野紹鴎によって、数寄屋風茶室が工夫されていった。 「張り付けを土壁に」とあるのは、鳥の子紙を張ったはめ込み式の張り付け壁の事で、副障子ともいい、書院造りの座敷の壁面として使用された。茶室の壁を土壁とし、土壁の下地である竹小舞(こまい)を見せた窓を開け、窓に竹の格子を付けるなど、草庵の風情を意匠に取り入れた。草庵茶室は千利休によって確立されていく。
千利休の手になると伝えられる茶室で実在するのは、京の南にある下山崎の妙喜庵にある待庵である。 天正10年(1582年)明智光秀と戦った羽柴秀吉が利休に造らせたものと伝えられている。
二畳の茶室に一畳の次の間と一畳の勝手を設けている。一畳は点前の座で、もう一畳は客の座である。これだけしかなく、茶室としては極小空間である。次の間を相伴客の席に使ったとしても三畳の空間である。
客は、高さ二尺六寸、幅二尺三寸六分の躪口(にじりぐち)から茶室に入る。利休の躪口としては大きいとされるが、それでも身をかがめて入らねばならない。この躪口から身をかがめて入ることが、俗世間から遊離した空間へはいる儀式である。躪口を通過する事で、幽玄の侘の世界に入ることができる。
天井は、床のすぐ前と左手はノネ板(屋根葺用の薄板)に白竹打ち上げ、右手前の躪口を入ってすぐ上は、竹の垂木を見せた化粧屋根裏となっている。化粧屋根裏の部分が、天井の低さをやわらげる工夫となっている。床(とこ)の中は隅柱を隠した室床(むろどこ)とし炉の上の壁も隅の柱を塗り込めて消している。いずれも部屋の狭さを感じさせないための工夫であるとともに、室内に変化を与える意匠上の工夫である。
障子の骨は、竹を用い床の框には三つの節が見え、床柱は、北山丸太である。壁には、大きさや位置が異なる、明かり取りの障子が設けられている。壁面は土壁とし、加賀奉書紙を腰張貼り貼っている。襖障子は太鞁張(たいこ)張りにした雲母(きら)の一色刷りの唐紙である。あらゆる部分に利休の精緻な精神が息付いて、一分の隙もなく独自の世界に引き込まれる仕掛けとなっている。利休の茶の精神を表現した極小宇宙の世界である。
茶室は俗世間と遊離した小宇宙である。茶室に入る前にすでに俗なる世間と違う精神世界に身を置いているほうが望ましい。市中の道路から武家や公家や寺院の境内に入り、茶室に近付く通り道を、単なる通路とせず茶のための予備空間としてさまざまな工夫を凝らす。
茶室を見通せないよう樹木を配し、飛び石も茶室へ進む客が歩きやすくしかも雅趣があり、さりとて作意の目立たないように配慮する。路地を外と内に分け、その境に中門または中潜りを置く。中門や中潜りを潜ることで茶室に近付きつつあることを実感し、そのことで俗世間から少しずつ遊離しはじめる。
茶室へ入るのを待つ腰掛け、手を清める蹲踞(つくばい)夜足元を照らす灯籠(灯篭)などさまざまな演出と意匠が施される。露地は、京や堺の町人たちが屋敷の奥に造った茶室への通路にさまざまの工夫を凝らした事に始まるという。茶人たちは、茶室だけでなくそのアプローチの外部空間へも緻密な工夫と気配りを行なったのである。
武家屋敷
武家屋敷の玄関は、門から石畳で玄関の式台につらなっている。玄関正面には舞良戸が嵌められていたが、武家屋敷の場合は必ずその横桟の横舞良子の幅を三センチ以上の太いものを、七本から九本くらいの粗さにして、重厚で厳格な表現をしている。
元来、舞良戸は舞良子の多いもの程高級とし、時には三十五本も入れたものがある。武家屋敷では、武威を示すため武骨なまでに太い舞良子を粗く配した。 玄関内部の正面は、大きな屋敷では槍床が設けられたが、普通は全部を壁面とした。正面を壁で塞いだのは、屋内を見透かせず防御の意味をもっていた。
座敷の天井は高くして、畳の上には一切物を置かず、万一の場合には戦えるように備えていた。また、座敷の長押の上には鎗掛けが設けられ、さらに用心のために長押の裏側に、石つぶての小石が隠されたりした。
台所の、板の間や土間が、屋敷の大きさに比較して大きいのは、いざ出陣という時の、支度のための準備に使うためである。武士たるもの、常日頃の心がけと、いざという時の態勢が必要とされたものである。
- 「用心厳しき高師直、障子・襖は皆尻ざし(建具の一種の錠で、框の下に楔を打ち込んだもの)、雨戸に合栓合框(錠の一種)、こじて外れず、大槌にて毀(こわ)たば音して用意せんか、それいかが・・・」
とある。赤穂浪士は思案の末、太い丸竹に綱を弓状に張ったものを準備して、その両端を雨戸の敷居鴨居にあてがい、綱を切った。太い丸竹の戻りの力で敷居鴨居がゆるみ、雨戸が一斉に外れ、義士たちがどっと屋敷内に踏み込むという場面は有名である。
徳川幕府の高家の上席である吉良義央の屋敷は、大給家所伝の絵図によれば、東西三十四間二尺八寸余、南北七十三間三尺七寸、二千五百五十坪の敷地に、建坪八百四十六坪であった。
このような一万石から二万石に相当する、豪壮な用心深い武家屋敷の、頑丈な雨戸が、芝居のように簡単に外れたはずがない。
実際には、雨戸や障子を掛矢で打ち破る音が激しく、北隣の旗本の土屋主税の屋敷に聞こえたという。 近世でも、武家屋敷となると、純粋な書院造りを基本としたやや武骨なまでも、重厚な造りであった。
二条城
二条城は、慶長六年(1601年)から三年かけて、家康が築いたものである。 現存する二条城は、寛永三年(1626年)の後水尾天皇の行幸に備えて、大改造したものである。
現在は二室構成となっているが、家康当時は上段の間、中段の間、下段の間の三室となっていた。上段の間の中央に、家康が座って対面の儀式を行なった。
上段の間は、書院造りの基本通りに正面に一間の床脇棚と三間の床の間が並び、広縁の側に付書院、そして右側に帳台構えを設けている。
帳台構えについては前に詳しく述べたが、敷居を畳より一段上げ、鴨居を長押より一段低く設け、四枚の紺碧画の襖絵を入れている。
この帳台構えの襖はいわゆる戸襖仕立てで、中央の二枚は左右に引き分け、外側の二枚は嵌め殺しとなっている。 帳台構えの敷居鴨居や柱、方立て(ほたて)などすべて黒塗りに仕上げられ、対面の儀式を重厚な格式ある雰囲気に演出する。
また、帳台構えの戸襖の後は、納戸となっており、万一のための用心に武者を入れて置くことができ、武者隠しとも云われた。この上段の間の書院造りの様式は、規模の差はともかく、武家屋敷の座敷には必ず採用されていった。
二条城の中段の間は、上段の間より一段下がり、対面の儀式の参列者の中でも、特に官位・階位の高いものが、その順位で座した。
右側壁面は、一間半の嵌め殺しの障壁画が三面連なっている。この紺碧障壁画は、上段の間の帳台構えの戸襖と、さらに下段の間の襖絵と一連の構成をなした、雄大なパノラマ絵である。
下段の間は、中段の間よりさらに一段下がり、厳格な席次で、列席者や対面者が座す。
対面の儀式は、階層社会である武家にとっては、最も重要な儀式で、武家の格式や威厳を誇示するもので、主家に対する忠誠を誓う儀式の場でもある。
二条城での家康は、対面の儀式のあと、下段の間に降りていく。下段の間の左手の広縁の前に、能舞台があり、能を見物するためである。対面の儀式の列席者の大名や公家たちも、全員下段の間に移って、能を見物した。能は、当時の公家や武家の重要なもてなしであった。