山名氏清
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山名 氏清(やまな うじきよ)は南北朝時代の守護大名。室町幕府侍所頭人、丹波・和泉・山城・但馬守護。山名時氏の四男。
生涯
山名氏は父の時氏が2代将軍足利義詮時代に南朝方から室町幕府に帰服して守護国を安堵された。応安4年/建徳2年(1371年)に父が没すると長兄師義が惣領となるが5年後に死去、氏清の弟時義が後を継いで山名氏の惣領となった。氏清は父の遺領から丹波を相続、天授3年/永和3年(1377年)に侍所頭人に任じられ、翌天授4年/永和4年(1378年)に次兄義理と共に紀伊の橋本正督討伐を成し遂げ和泉守護にも任命された。しかし惣領になれなかったことに不満を持ち、時義と常に対立していたという。
康応元年/元中6年(1389年)に時義が死去し、その後を時義の子・時熙が継いだ。康暦の政変で管領の細川頼之が失脚し、山名氏の強大化を懸念していたと考えられる3代将軍足利義満は、時義死後の家中分裂に伴い、将軍命令として氏清とその甥(婿)にあたる山名満幸に対して時熙、氏之の討伐令を下し、氏清はこれに応じて時熙を攻めて追放、恩賞として時熙の領国但馬を手に入れた。
しかしその後、義満は時熙・氏之を赦免し、時熙を攻めた責任を満幸に問うとまで言い出した。氏清は満幸に反乱へ誘われ、積極的でなかったとされるが次兄義理、甥の氏家(兄氏冬の子)らと共に明徳2年/元中8年(1391年)に挙兵して、同年12月には京都に攻め入る。合戦は京都内野で行われ、大内義弘や赤松義則、京極高詮などの有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した(明徳の乱)。妻も殉死しようとしたが、失敗して3年後に死去した。