小笠原貞慶

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小笠原 貞慶(おがさわら さだよし)は戦国時代武将信濃守護小笠原長時の3男。

生涯

父・長時の頃に甲斐武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、長時は小県郡村上義清らと武田氏に対抗するが、天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いにおいて敗退する。『小笠原系譜』『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』など近世期の系譜史料に拠れば、長時親子は信濃没落後に越後上杉氏を頼り越後へ逃れ、その後、同族の京都小笠原氏や三好氏を頼り京へ逃れたという。

京において長時親子は信濃復帰を望み運動しており、永禄4年(1561年)に貞虎(貞慶)は長時とともに本山寺大阪府高槻市)に対し旧領復帰の際には寺領寄進を約束している(永禄4年閏3月付小笠原貞虎(貞慶)書状「本山寺文書」)。なお、本山寺文書に拠れば貞慶は諱を「貞虎」から「貞慶」に改名しており、「虎」字は越後亡命時代に貞慶は元服し長尾景虎(上杉謙信)から偏諱を拝領し、その後京で三好長慶から「慶」字を拝領した「貞慶」に改名した可能性が考えられている[1]

その後、長時とともに信玄により駆逐された北信豪族を庇護した越後上杉謙信のもとへ寄寓し、本山寺に対して祈願文書が発給された永禄4年には上杉氏と武田氏の間で川中島の戦いが行われているが、永禄4年の第四次合戦を契機に北信を巡る争いは収束し、長時親子も旧領回復には至っていない。

天正7年(1579年)、長時から家督を相続する。長時は謙信の死後に会津蘆名氏のもとに奇偶しているが、貞慶は織田信長に仕えて関東における諸大名への対武田交渉を担当している。天正10年(1582年)に甲州征伐で武田氏が滅亡すると、信長から信濃筑摩郡に所領を与えられた。同年6月、信長が本能寺の変で死去した後は天正壬午の乱において徳川家康の家臣となる。北信ではこの頃、伯父の洞雪斎が上杉氏の後援を受けて深志城を押さえていたが、小笠原旧臣は上杉氏の傀儡であった洞雪斎から離れていたと言われ、貞慶は徳川氏や小笠原旧臣の支援を得て深志城(松本城)を奪還する。これにより大名として復帰を果たした。その際、長男の小笠原秀政を人質として差し出し、家康の宿老であった石川数正に預けられた。

天正13年(1585年)、突如として数正が人質の秀政を引き連れて家康のもとから出奔すると、それに従って豊臣秀吉のもとへ赴き、その家臣となった。天正18年(1590年)、小田原征伐前田利家軍に従って軍功を挙げたため、秀吉から讃岐半国を与えられた。しかし、かつて秀吉の怒りに触れて追放された尾藤知宣を保護したため、秀吉の怒りを買って改易された。

その後は子の秀政とともに再び家康の家臣となり、下総古河に3万石を与えられた。文禄4年(1595年)死去。享年50。茨城県古河市隆岩寺に供養塔がある。

脚注

  1. 平山(2011)、pp.43-44

参考文献

  • 平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』学研、2011年

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