春牟古丹島
テンプレート:Infobox 春牟古丹島(はりむこたんとう/はるむこたんとう)は千島列島の中部にある島。ロシア名はハリムコタン島 (о. Харимкотан)、英語表記はKharimkotan。
島の名前の由来は、アイヌ語の「ハリム・コタン(オオウバユリ・村→オオウバユリの多い所)」や「ハル・オマ・コタン(オオウバユリの鱗茎・そこにある・村→オオウバユリがそこにある村)」から。
この島の別名は加林古丹(かりんこたん)とも言い、由来は「カ・リン・ム・コタン(上・波<泥流>・這う・村→村の上を波<泥流>が這うように流れ下った村)」である。
元禄御国絵図には本島が「はるたまこたん」と表記されているが、これは「はるおまこたん」の間違いである。
地理
温禰古丹島(おんねこたんとう)の南西、捨子古丹島の北東の、中間やや前者寄りにある、長さ約 13 キロメートル、幅 8 キロメートルの北西方を頂点とした三角形の火山島である。
中央部には海抜 1,157 メートルの成層火山である春牟古丹岳(はりむこたんだけ、ロシア名:セヴェルギナ山 влк.Севергина)が聳えており、有史以来度々爆発、噴火している。噴火は18世紀から確認されており、最後に噴火したのは1933年である。この噴火では山頂が吹き飛ばされ、温禰古丹島や幌筵島に火山灰や津波が押し寄せる程の規模であった。また、この噴火で2人の死亡が確認されている。
北西部は山岳が低くなっていて数個の沼があり、北隅にある小さな湾の奥は砂浜である。また湾口の東端は丸崎と呼ばれる海抜 150 メートルの高台となっている。この岬の端には平瀬と呼ばれており、養狐番舎が建てられていた。
島の丘陵部には花が咲いており、高山植物であるイワブクロは海岸から咲いている。
歴史
かつて、アイヌはオオウバユリといった食用の野草を採りに訪れており、島の北西には穴居の跡があったという。
- 1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。
- 1715年(正徳5年)、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
- 1812年(文化2年)9月24日、薩摩の永寿丸漂流民、喜三左衛門ら6名が漂着。そのうち3名は春牟古丹島で病死した。
- 1855年(安政元年)、日露通好条約によりロシア領となる。
- 1875年(明治8年)、樺太・千島交換条約により日本領になる。
1945年以前には定住者はおらず、わずかに養狐事業で農林省から派遣された島守が越年舎で生活するのみであった。また、当時は行政上北海道根室支庁占守郡に属していた。現在はロシア連邦が実効支配しているが、日本政府は、国際法上は所属未定であると主張している。第二次世界大戦終了後、サンフランシスコ講和条約によって日本は領有権を放棄している。
関連項目
参考文献
- 『北方領土地名考』 北方領土問題対策協会編、1978年