アルベロベッロ
テンプレート:コムーネ アルベロベッロ(テンプレート:Lang-it)は、イタリア共和国プッリャ州バーリ県にある、人口約1万1000人の基礎自治体(コムーネ)。
「トゥルッロ」と呼ばれる伝統的な家屋が約1500軒あることで知られている。白壁に円錐形の石積み屋根を載せたこの家屋は、16世紀から17世紀にかけて開拓のために集められた農民によって造られたものである。かつてこの地方に広く見られたトゥルッロ群(複数形で「トゥルッリ」)が多数現存し、住居や店舗として利用されている景観は貴重であり、「アルベロベッロのトゥルッリ」は1996年に世界遺産として登録されている[1]。
目次
名称
地元のバーリ方言テンプレート:Enlinkでは、Aiarubbédde と呼ばれる[2]。
地名の Alberobello は、「美しい樹」を意味する。この土地の中世の名 silva arboris belli [1]に由来する。
地理
位置・広がり
バーリ県南東部、ヴァッレ・ディトリアテンプレート:Enlink(イトリア谷)に位置するコムーネで、ターラントから北へ約36km、県都・州都バーリから南東へ約48km、マテーラから東北東へ約55km、ブリンディジから西北西へ約61kmの距離にある[3]。テッラ・デイ・トゥルッリテンプレート:Enlink(トゥルッリの土地)と呼ばれる地方の中心地である。
市域内にはカステッラーナ・グロッテの飛地がある。
隣接コムーネ
隣接するコムーネは以下の通り。BRはブリンディジ県、TAはターラント県を示す。
- モノーポリ - 北
- ファザーノ (BR) - 北東
- ロコロトンド - 東
- マルティーナ・フランカ (TA) - 南東
- モットラ (TA) - 南西
- ノーチ - 西
- カステッラーナ・グロッテ - 北西
市街・集落
アルベロベッロは、21世紀初頭の現在も約4分の1の建物がトゥルッリであり、ヴァッレ・ディトリアのトゥルッリ文化の中心地となっている。
世界遺産として登録されている地域は、アイア・ピッコラ地区(Aia Piccola)とモンティ地区(Monti、「リオーネ・モンテ地区」とも)である。アイア・ピッコラ地区には1030軒、モンティ地区には590軒のトゥルッリが現存する[1]。
歴史
定住の始まり
14世紀半ば、ターラント公ロベルトテンプレート:Enlinkがこの地方の領主権をコンヴェルサーノ伯に与えた際、現在のアルベロベッロのある周辺は「無人の土地」と記録されている[1]。以後、この地域はコンヴェルサーノ伯の荘園となりカゼッレ(caselle)と呼ばれ、領内の他の地域から農民が移されたと考えられる[1]。ただし、西暦1000年ころには現在のアイア・ピッコラとモンティに集落が形成されていたとする研究もある[1]。
この地域への人々の定住がはじめて記録されるのは16世紀初頭のことで、コンヴェルサーノ伯アンドレア・マッテオ3世・アックアヴィーヴァ・ダラゴーナテンプレート:Enlinkが推進したことによる。アックアヴィーヴァ家テンプレート:Enlinkはナポリ王国有数の名門貴族の家系で、アンドレア・マッテオ3世の父であるジュリオ・アントニオ1世テンプレート:Enlinkがコンヴェルサーノ伯爵領を入手した。アンドレア・マッテオ3世はノーチの属地であったこの地域に、およそ40家族の農家を開拓・営農のために入植させ、収穫物の十分の一を納めることを課した。
16世紀半ばの記録によれば、モンティ地区には40軒のトゥルッリがあった[1]。
ジャンジローラモ2世とトゥルッリ
アンドレア・マッテオ3世の子孫であるジャンジローラモ2世テンプレート:Enlink(1600年 - 1665年、コンヴェルサーノ伯在位: 1626年 - 1665年)は、Guercio delle Puglie の名で知られ、勇猛な武人、有能な荘園経営者、芸術家のパトロン、そして暴君として多くの逸話が語られる人物である(最後の約20年は暴政を理由として国王に逮捕・幽閉され、スペインで客死した)。ジャンジローラモ2世はしばしばこの地に狩猟を催して滞在した。1620年、ジャンジローラモ2世は、この地に製粉所、パン屋、宿屋を建てさせ、町の拡大がはじまった[1]。
もともと石灰岩質のこの地方では、先史時代から石灰岩を住居に用いる方法が発展してきた[1][4][5]。モルタルなどの接合剤を使わずに石灰岩の切石を積み上げ(乾式工法テンプレート:Enlink)、石灰(漆喰)に塗って仕上げたトゥルッロ(「部屋一つ屋根一つ」の意)は、農民たちの厳しい生活環境に応じて入手しやすい材料で作られ[6]、気候風土に合った形で発展を遂げたものである[4]。一方で、農民の家は解体しやすいよう簡易に建設することが領主によって命じられていたともいう[1]。理由としては2つあり、1つは反抗的な農民への見せしめ、もう1つは課税対策である[1]。
当地のトゥルッリについては以下のような話が伝わる。伯爵は家屋の建築にあたってモルタルを使わない方法のみを認めたため、市街地にはトゥルッロが広がった。伯爵がこのような建築を義務化した理由としては、ナポリ王国のスペイン人総督(ナポリ王は1700年までスペイン・ハプスブルク家が王位を継承し、ナポリに総督が派遣されていた)に納める税を逃れる意味合いがあった。1700年まで効力があった Pragmatica de Baronibus によれば、新たな町の建設には王の認可が必要で、領主は王宮に税を納めなければならなかった。このため、取り壊しをしやすいような家屋を建てさせ、王の監督官が視察に来る際に領民に命じて取り壊させていた、というのである(実際、1644年のナポリ王国の徴税官の報告に、徴税を妨害するための家屋解体が行われたと記載されている[1])。
なお、トゥルッロの簡易な構造と節税とを関連させる話としては、「『漆喰で塗装された屋根のある家』が課税対象であったため、徴税人が来る際に住民が屋根を取り壊した」という話も伝えられている[4]。
近代
18世紀末まで、この地はアックアヴィーヴァ・ダラゴーナ家の荘園であった。18世紀末の時点の人口として3500人が数えられている[1]。住民たちの働きかけにより[1]、1797年5月27日にブルボン家のナポリ王フェルディナンド4世はこの村を王領都市(città regia)として、封建農奴制から解放した。現在のアルベロベッロという地名は、この土地の中世の名 silva arboris belli [1]にちなんでつけられた。
トゥルッリはこの地方では広く見られた建築で、たとえば20世紀前半までヴィッラ・カステッリの旧市街にはトゥルッリが立ち並んでいたが、やがてそうした景観は失われていった。アルベロベッロでも19世紀以降トゥルッリが新築されることは急速になくなっていく[1]。しかし、アルベロベッロには多くのトゥルッリが残り、世界遺産として登録される20世紀後半には、すでに観光地として知られていた[4]。
1996年、「アルベロベッロのトゥルッリ」が世界遺産として登録されている。
姉妹都市・友好都市
姉妹都市
- テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク(ギリシャ)[7]
- テンプレート:Flagicon ロメンティーノ(イタリア)[8]
- テンプレート:Flagicon 白川村(日本・岐阜県)[9]
- 2001年に[11]アルベロベッロから提携打診、以後交流を深め、2005年3月3日に白川村で協定調印[10][11]。ともに住居集落が世界遺産に登録されている(白川村は1995年登録の「白川郷・五箇山の合掌造り集落」)[10][11]。
その他の協定
このほか2013年には、同じプッリャ州内にあって世界遺産を擁するモンテ・サンタンジェロ(イタリアのロンゴバルド族:権勢の足跡 (568-774年))、アンドリア(カステル・デル・モンテ)と、文化遺産・景観の保護や観光業に関する協力協定を結んでいる[13]。
施設
- ラ・カーサ・ロッサ
- 1940年、イタリア政府はそれまで農業学校として使われていたマッセリア・ギガンテ(Masseria Gigante)と呼ばれる建物と農場、計72ヘクタールの土地を収用した。この施設は、収用当初は民間人抑留施設・刑務所として、またユダヤ人の輸送・抑留拠点として1943年9月まで用いられた。ファシスト政権が敗北すると、今度はファシスト・戦争犯罪人の拘置施設として1946年まで利用された。ついで、戦後の混乱の中で生じたさまざまな難民(ドイツ人、アルバニア人ムスリム、オーストリア人、ユーゴスラビア人、ロシア人正教徒、バルト三国の人々、脱走兵など)の収容施設として1947年から1949年まで利用された。建物の塗色から「赤い家」(la casa Rossa)の名で呼ばれるマッセリア・ギガンテは、2007年に州の史跡となり、ショアー(ホロコースト)と戦争とを記憶する博物館として利用されている[14]。
交通
鉄道
- スド・エスト鉄道
- バーリ=マルティーナ・フランカ=ターラント線テンプレート:Enlink
脚注
「※」印を付したものは翻訳元に挙げられていた出典であり、訳出に際し直接参照してはおりません。 テンプレート:Reflist
外部リンク
- Google Maps
- http://www.alberobello.net
- テンプレート:Kotobank
- アルベロベッロのトゥルッリ - NHK世界遺産ライブラリー
テンプレート:バーリ県テンプレート:Italia-comune-stub
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite book ※
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- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 テンプレート:Cite web
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- ↑ 10.0 10.1 10.2 テンプレート:Cite web
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 テンプレート:Cite web
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