南部利直
南部 利直(なんぶ としなお)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。南部氏第27代当主。陸奥盛岡藩の初代藩主。
生涯
天正4年(1576年)、第26代当主・南部信直の長男[1]として三戸の田子城にて生まれる。天正18年(1590年)、前田利家を烏帽子親として元服し、その偏諱(「利」の1字)を受けて利直と名乗る[2]。文禄4年(1595年)に従五位下・信濃守に叙任[1]。
慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去した後は父とともに五大老筆頭の徳川家康に近づいた。慶長4年(1599年)、父が死去したため、家督を継いで南部家の第27代当主となった[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、東軍の家康は東北・北陸の大名に対し西軍の石田三成に通じた会津上杉景勝の征伐を命じ、利直は最上義光の後援として山形に出陣するが(慶長出羽合戦)、領土拡大を密かに謀った伊達政宗が和賀忠親を煽動して和賀郡や稗貫郡で一揆を起こしたため、帰国を許されて慶長6年(1601年)までに一揆を鎮圧した[1](岩崎一揆)。
以降は盛岡藩政の整備に着手し、白根金山や西道金山をはじめとする鉱山開発から財政を安定させた。折から領内の産金が著しいこともあり財政に恵まれて近世的支配体制が進展する[1]。元和元年(1615年)には盛岡城を築城して城下町を形成し、三戸城下の市民も盛岡に移した[1]。また、九戸政実の乱の先例から血縁関係のない家臣の多くを処罰、追放して独裁集権化を進め、盛岡藩の基礎を固めていった。
慶長19年(1614年)には大坂冬の陣にも参陣し、江戸幕府との関係強化に務めた。寛永3年(1626年)に従四位下になる[1]。
寛永9年(1632年)8月18日、江戸桜田屋敷で死去[1]。享年57。後を3男の重直が継いだ。
エピソード
利直にまつわる食べ物として「わんこそば」が挙げられる。利直が江戸に上る途中花巻に立寄り、旅のつれづれを慰めようと郷土名産の蕎麦を差し上げたところ、利直はその風味を大変お気に入り何度もお代わりをしたという。その際、蕎麦を上品に椀に盛って差し上げたところから「わんこそば」と称されるようになったといわれる。
脚注
注釈
引用元
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 引用エラー: 無効な
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「南部利直」の項(執筆:細井計)より。