ウランバートル

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テンプレート:Redirect テンプレート:世界の市 ウランバートルテンプレート:Lang-mnUlaanbaatar オラーンバータル、テンプレート:Lang-en-short)は、モンゴル国首都。同国中部、トーラ川沿岸の標高約1,300mの場所に位置する都市。人口は1,221,000(2012年統計)で、同国の人口のおよそ半数近くが集中する極端な一極集中となっている。名実ともにモンゴルの政治経済の中心地で、中国からロシア欧州)に至る国際鉄道の主要な中継地。主産業は鉱物、食肉加工、製粉、製乳。旧名ウルガテンプレート:Lang-mn-shortÖrgöö)、フレーテンプレート:Lang-mn-short ; Khüree)。

歴史

ウランバートルの位置するトーラ川流域は、古くからモンゴル高原を支配する遊牧民の政権が置かれた地域のひとつである。この地域は16世紀に現在のモンゴル国の大多数を占めるモンゴルハルハ諸部が支配するようになり、17世紀にハルハの人々が尊崇するチベット仏教活仏ジェブツンダンパ・ホトクトの支配地になった。

ジェブツンダンパ・ホトクトは当初ゲル(帳幕)の寺院に住み、弟子や領民と一緒に季節移動を行う遊牧生活を送っており、ホトクトのゲルが置かれている場所はイフ・フレーと呼ばれる移動する町になった。後にはホトクトは移動生活をやめて現在のウランバートルの場所に寺院を設け、定住するようになったので、周辺に弟子の寺院や巡礼者が集まって門前町が形成され、外モンゴル(現在のモンゴル国)でほとんど唯一の都市に発展した。

モンゴル高原を支配する清朝はフレーを漢字に写してこの町を「庫倫(クーロン)」と呼び、庫倫辦事大臣を置いて外モンゴルのハルハ諸部を統制する出先機関とした。19世紀には庫倫辦事大臣の周囲に漢民族の商人も住み着き、またロシア人も訪れるようになって外モンゴルの政治、経済、交通の中心地となる。

1911年に清で辛亥革命が起こると外モンゴルのハルハ諸部はジェブツンダンパ8世を皇帝(ボグド・ハーン)に担ぎ上げて独立を宣言し(ボグド・ハーン政権)、その所在地であるフレーが首都となった。ボグド・ハーン政権は、1915年のキャフタ協定によって中華民国の宗主権を認めつつ、広範な自治を認めさせた。しかし、後ろ盾となっていたロシア帝国が革命で崩壊すると、中華民国の圧力が強まり、1919年に自治の撤廃へと追い込まれた。

ロシアの反革命勢力であるウンゲルンの軍が1921年2月にフレーを占領、その影響下でボグド・ハーン政権は復興することになった。一方、同年にモンゴル人民党は臨時政府を樹立し、ソヴィエト赤軍極東共和国軍とともに、フレーを攻略した。このモンゴル人民党政権を、ソヴィエト・ロシアは主権国家とみなし、11月に両国間で友好条約を結んだ。1924年モンゴル人民共和国が成立した後、都市名はフレーからモンゴル語で「赤い英雄」を意味するウランバートル(モンゴル語の発音は『オラーンバータル』に近いが、日本の地理用語としては『ウランバートル』が定着)に改められ現在に至っている。 テンプレート:Clearleft

地理

ファイル:Ulaanbaatar106.87985E 47.88608N.jpg
ウランバートルの衛星写真 北東方向から撮影したもの。南北4km、東西20kmにわたり、トーラ川に沿って細長く延びる市街の様子が分かる。写真中央上にはウランバートル空港も見える

人口だけ見ると100万都市ではあるが、土地や道路が広い。行政的には「首都特別区」と呼ばれ、県と同等の地位を与えられている。特別区はさらに、ナライハ区・バガノール区・バガハンガイ区という3つの郊外区を含む9つの区に分けられている。郊外区は、行政的には都心と陸続きではあるが、そこへ行くためには何もない草原地帯を通過するため、実質的には飛び地のようなイメージである。

気候

気候は典型的な大陸性であり、ケッペンの気候区分でいうステップ気候である。年平均気温は-0.1℃にしかならず、年間降水量は281.7mmでほとんどが夏季に集中する。1月の平均気温は-21.7℃と世界の首都の中では最も低い。旧平年値の-22.2℃より+0.5℃上がっている。(1981-2010年の平年値)近年は、冷え込みが緩くなっており、1960年代の冬の最低気温-40℃〜-45℃が、現在では、-35℃〜-40℃前後である。夏はナーダム前後をピークにきわめて暑く、7月の平均気温は18.5℃、場合によっては40度近くまで上がることもある。この時期は異常ともいえる乾燥ともあいまって熱中症、脱水症状、心筋梗塞、腎臓結石等の被害が多発する。特に事情に疎い外国人が発症しやすい。市民は市内を流れるで泳いだりして短いを満喫するが、早い年では8月下旬に早くも初雪を観測し、朝晩は息が白くなる。8月でも、0℃を下回ることが稀だが、ある。なお、ソ連(ロシア人)の風習を真似て、市民は夏でも冬でも1日1回は戸外に出て散歩をする。 最高気温極値は、39.1℃ 最低気温極値は、-49℃ テンプレート:Weather box

街並み

ファイル:Ulaanbaatar city Mongolia.ogv
ウランバートルの風景

都市計画は、政府・党関係の公共機関とソビエト式アパート、広い道路などが計画的に配置された完全なソ連式だが、中心部の道路は上空から見ると、差し込む太陽の光とゲルをデザインしたユニークな構成となっている。ソ連式都市計画の特徴として、いわゆる繁華街というものが存在しない構造になっているが、市場経済以降後は土地の占有権(最近は郊外にかぎり所有権も)が解禁されたこともあり、建物の1階部分を改造しての商業化が行われている。建築は、機能的なソビエト・スタイルとパステルカラーのロシア古典様式が中心だが、中ソ対立以前に建てられた現代中国様式や、ソビエト・スタイルにモンゴル独自の意匠を組み合わせた特異なデザインのものも見られる。首都建設の初期には、スターリンとの密約によってシベリアから移送された日本人強制連行者が活躍した。強制連行された日本人により建てられた多くの建築は現在でも現役で使用されている。地震がほとんどないため、工法はレンガを積んだりパネルを組み合わせたりするだけで鉄筋が入っていないケースが多い。

かつては自動車もほとんど走っておらず整然とした美しい街並みであったが、市場経済化以降は違法建築や看板の乱立、自動車の増加によってその面影はない。テンプレート:いつ範囲中華人民共和国内蒙古自治区出身のモンゴル系中国人や朝鮮人が商店や食堂を経営するケースが多く、場所によっては漢字やハングルばかりの街並みも珍しくない(近年の運動により、英語以外の外国語看板はキリル文字表記の看板に掛け換わりつつある)。香港系のシャングリラ・ホテルの進出(当初2007年稼動開始予定)が期待されていたが、計画は頓挫してしまった。なお、ロシアや韓国、日本の企業により、新興ビジネスマン(モンゴル版オルガリヒ)や外国人、海外出稼ぎでの成功者などを対象とした高級マンション(完全警備のコンパウンド式)が建設され、不動産投資ブームが起こっている。日系では、スルガコーポレーション(本社・横浜市)が日本式マンション主体の高級コンパウンド「フォーシーズンズ・ガーデンズ」を建設中である。

同時期の郊外では、やはり富裕層向けの戸建ての個人住宅のほかに、元牧民が住み着きスプロール化した「ゲル地区」が広がった。当局の許可は得たり得なかったりだか、遊牧用住居のゲルを据えつけて住みつき、やがて木造建築、最終的には煉瓦作りの建物に建て替えていく。暖房手段は石炭ストーブで、特に断熱効率が低い木造建築で大量の石炭を消費し、それが大気汚染の原因となった。都市インフラが後追いになり、下水とゴミ処理にまつわる衛生上の問題が発生している[1]。モンゴル政府はゲル地域の土地を購入しそこでより小さい面積に高い建物を建てウランバートル市内の大気汚染を減らそうという計画が始まっている。 テンプレート:Wide image テンプレート:Gallery

交通

道路

ファイル:Ulaanbaatar train station.jpg
レストラン等が入るウランバートル駅舎

市民の足は、社会主義時代は路線バスとトロリー(ゴムタイヤで走る特殊な路面電車)であったが、市場経済化以降はバス車内の治安悪化や渋滞の激化により、タクシーや「ミクロ」と呼ばれる9人乗りのワゴン車などが中心となっている。また、多くの世帯は自家用車を所持し、ちょっとした距離でも自動車で移動する習慣があるため、市内の渋滞はきわめて深刻である。

テンプレート:いつ範囲、バスに乗るのは学生と老人だけとさえ言われているが、日本政府のODAで供与されたバス99台が故障もなく路線を支えている。右側通行であり、飛び出し等歩行者の交通マナーは悪い。

航空

チンギスハーン国際空港から国内/国際線が就航している。

鉄道

市内にはモンゴル鉄道の中核駅であるウランバートル駅が存在する。

生活

かつては電力水道供給が不安定で、停電断水が頻繁に起きていたが、テンプレート:いつ範囲では日本のODAの成果もあり、ライフラインはかなり安定している。水道水は日本政府の支援で塩素処理が行われている。

社会主義政権崩壊後の経済混乱による家庭崩壊は深刻なものがあり、昼間からの酔っ払い、清掃労働、および物乞いに従事するストリートチルドレンも多い。その為、スリやひったくり、ノックアウト強盗等が年を追うごとに増えており、人込みや日没後の外出は危険とされる。

著名な出身者

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施設

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姉妹都市

関連項目

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脚注

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参考文献

  • 小金澤孝昭・ジャンチブ・エルデネ・ブルガン・佐々木達「モンゴル・ウランバートル市のゲル集落の拡大」、『宮城教育大学環境教育研究紀要』第9巻、2006年。

外部リンク

テンプレート:モンゴル国の地方行政区画

テンプレート:アジアの首都テンプレート:Link GA
  1. 小金澤他「モンゴル・ウランバートル市のゲル集落の拡大」。
  2. 戦没者慰霊事業:日本人死亡者慰霊碑(モンゴル)厚生労働省ホームページ