平間重助
テンプレート:Amboxテンプレート:DMCA 平間 重助(ひらま じゅうすけ、文政7年(1824年) - 明治7年(1874年)8月22日 (旧暦))は、江戸時代後期の志士。新選組隊士(壬生浪士組の副長助勤)。
来歴
文政7年(1824年)、水戸藩郷士芹沢氏の用人・平間忠衛門の子息として常陸行方郡芹沢村に生まれる。芹沢貞幹の三男芹沢鴨(下村嗣司)に剣術を学び、神道無念流目録を得る。その後、文久3年(1863年)2月、平間は妻子を芹沢家に預け、芹沢とともに浪士組に参加する。
入洛直後、芹沢や近藤勇ら13人は浪士組を脱退し、京都守護職の会津藩預りの壬生浪士組を結成する。筆頭局長に芹沢、局長に近藤と新見錦、平間は副長助勤をつとめる。組内は芹沢率いる水戸派と近藤率いる試衛館派に大別され、平間は水戸派に属した。平間は算用に通じていたのか、勘定方を務めている。
9月16日(18日説あり)、新選組は島原の角屋で芸妓総揚の宴会を開く。芹沢や平山五郎、平間は屯所である八木家へ早めに戻る。芹沢と平山は泥酔していたが、平間は平素からあまり酒を飲まず、さほど酔ってはいなかった。八木家には芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、芹沢と平山は奥の十畳間で女と同衾し、平間は玄関口の左手の部屋で糸里と就寝した。
同日未明、複数の刺客による夜襲によって芹沢と平山らは惨殺される。惨殺後、騒ぎを聞きつけた平間が大声を上げながら屋内を駆け回る様を、八木家の親子によって目撃されている。一説によれば、刺客は試衛館派の土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助とする説がある。近藤と土方が駆けつけた際、平間はすでに逐電していた。新見は暗殺の3日前に、同じく副長助勤の野口健司は同年12月に切腹しているため水戸派の中では唯一の生き残りとなった。
逐電後は帰郷して、芹沢家に事の顛末を伝えるや消息不明となる。明治維新後は帰郷に隠棲し、明治7年(1874年)に死去する。享年51。法名は孤月冷淋居士。
備考
- 平間家は、芹沢氏とは旧来より主従関係にあり、代々用人(家老)を務めていた。天保15年(1844年)の水戸藩の軍事調練に参加した芹沢外記貞幹が率いる一族30人の中に、「平間重助」の名がみえる。
- 平間は新選組の勘定方を務めている。会津藩からの資金供与は乏しかったため、芹沢らによる豪商への押し借りで資金を調達しており、芹沢に近い平間が財務を握る必要があったと思料される。
- 芹沢らの蛮行は朝廷の怒りを買い、密かに会津藩に対して召捕りの命が下されていた。この惨殺劇は、会津藩が試衛館派に芹沢の処置を命じたとする説や、水戸藩の国学や尊王攘夷思想の流れをくむ芹沢を会津藩が危険視したためとの説もある。
- 「新選組剣豪秘話」(流泉小史著)には、各地を流浪した末に岩手県で養蚕教師となり、明治23年(1890年)まで存命したとの話が記載されているが、茨城県行方市芹沢の法眼寺の過去帖や戸籍によって、明治7年旧暦8月22日に死亡したことが判明している。現在、法眼寺に芹沢と連名の慰霊碑が建立されている。