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墨俣城(すのまたじょう)は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の城である。
概要
築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)[1]の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論がある。[2]
現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられているが、史実上の外観とは異なる[3]。また、公園内にある白鬚神社(式内社荒方神社の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれたさいに分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。
歴史
- 『信長公記』
- 太田牛一著。
- 巻首「十四条合戦の事」に、洲股要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及んで勝利、洲股帰城の後これを引き払う、との記述がある。
墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは天正12年(1584年)4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修したとある。その2年後の天正14年(1586年)6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、この地が城として使われることはなかった。
秀吉の墨俣築城に関するそのほかの史料を以下にあげる。
- 『甫庵太閤記』
- 小瀬甫庵著、寛永3年(1626年)成立
- 永禄9年(1566年)に秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった、という記述がある。 城の場所や城名は明らかではなく、また墨俣の地名は甫庵が著作中で何度も使用しているのにもかかわらず、この箇所の記述においては用いていないことから、ここで秀吉が入れられた城は墨俣とは別の、木曽川沿いの場所のどこかであったとも読みとることができる。 また、記述の中にも閏月が考慮されていないなどいくつか問題点がある。
- 『武功夜話』(前野家古文書)
- 昭和34年(1959年)に発見された前野家古文書のうちの『永禄州俣記』、一部が『武功夜話』昭和62年(1987年)出版[4]。
- 江戸時代初期までにまとめられたと言われている同書には、墨俣一夜城築城の経緯が克明に記録されており、ほとんど伝説として扱われてきた一夜城の実態を知りうる史料と考えられている。しかし、偽書説も根強く、資料としての信頼性は意見が分かれるところである。[5]現在、墨俣一夜城の逸話が史実として紹介される場合、その詳細はこの『前野家古文書』に多くを拠るもので、墨俣城跡にある墨俣一夜城歴史資料館も『前野家古文書』に基づいて展示を行っている。
文学作品(軍記物)への引用
- 『絵本太閤記』
- 武内確斎著・法橋岡田玉山挿絵、読本、寛政9年(1797年)初編刊行
- 永禄5年(1562年)の6月中旬に洲股砦城が建てられたという逸話が伝えられている。信長の命令で、最初に佐久間信盛、次に柴田勝家が修造を試みるが失敗。そこで、秀吉は信長に7日のうちに完成すると言上し、美濃勢を伏兵奇計で撃退しながら、砦城の建造準備を行い、とき6月中旬の雨で戦闘中断、材木を組み立て、一夜にして完成。馬出し・柵・逆茂木を備えた龍に似たる長城。砦の普請まったく整い、清洲の信長に報告、金銀を褒美として賜る、と表現している。
- 『新史太閤記』
- 司馬遼太郎著、新潮文庫、昭和43年(1968年)
- 墨俣築城に関して、美濃攻めにおいて織田信長の軍にとっては戦場が遠いことから前線基地として墨俣に築城する必要があるとの木下藤吉郎の進言で信長は築城を任せたところ、藤吉郎は3日でほぼ完成させた、と表現している[6]。
脚注
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参考文献
関連項目
外部リンク
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↑ 当時の地名は洲股、いくつかある支流の合流地の意。後に墨俣と当て字がされた。
↑ 先述した斎藤氏の城と同一の城(例えば、斉藤氏から奪取して改築したもの)なのか、築城期間はどの程度かなど。一夜城の伝承自体を否定する説もある。
↑ 簡易な建築や柵で構成されたものであったとされる
↑ 『永禄州俣記』以外にも『州俣覚』など別史料も存在する。
↑ 詳細は武功夜話#史料的価値に対する論争を参照のこと。
↑ 司馬遼太郎著『司馬遼太郎と城を歩く』光文社 2006年(平成18年)