日秀尼

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日秀尼(にっしゅうに、1534年天文3年) - 1625年5月30日寛永2年4月24日))は、安土桃山時代から江戸時代日蓮宗。母は大政所。父は木下弥右衛門豊臣秀吉(羽柴秀吉)の姉。夫は三好吉房秀次秀勝秀保らの母。(とも)。位記上の本名は智子(ともこ)。通称に村雲尼(そんうんに)。院号は瑞龍院(ずいりゅういん)。

略歴

尾張国農民である弥助(後の三好吉房)に嫁ぎ、1568年(永禄11年)秀次、1569年(永禄12年)秀勝、1579年(天正7年)秀保を産む。1591年(天正19年)弟の秀吉が嫡子鶴松を亡くすと、その養子に秀次・秀勝を入れ、秀保は自身と秀吉の弟豊臣秀長の養子に入れた。しかし、1592年(文禄元年)秀勝は朝鮮渡海中に出陣で病死した。秀次は関白となるが、1595年(文禄4年)謀反の疑いをかけられ切腹した。夫の吉房も連座して讃岐国に流される。さらに同年中、秀吉に秀次の遺児(孫)を大勢粛清され、秀保までもが不可解な死を遂げると、智子は仏門に入り出家した。1595年(文禄4年)嵯峨野の地に善正寺を建立し、秀次の菩提を弔った。1596年(文禄5年)後陽成天皇の思し召しにより、村雲の地に1000石の寺領を寄進され、瑞龍寺を建立した。後に、皇女や公家の娘が門跡となる尼門跡として、「村雲御所」と呼ばれる格式高い寺院となった。1615年夏には大坂の陣で孫娘のお菊が徳川軍に処刑される悲劇を味わう。1625年5月30日(寛永2年4月24日)死去[1]。享年92。墓所は瑞龍寺、本圀寺、秀次の墓所がある善正寺に存在する。善正寺には肖像画と木像が残る。

逸話

  • 1615年(慶長20年)大坂夏の陣豊臣宗家が滅亡すると、真田信繁の五女(母は秀次の娘)で曾孫にあたる御田姫(後に岩城宣隆室)を自分のもとに避難させている。
  • 孫である完子との関わりもあったらしく、完子や千世鶴と共に藤堂高虎と面会したり、完子の末娘が日秀の生前からの願いにより瑞龍寺を継いだりしている。

備考

  • 秀吉の兄弟姉妹では唯一、現代に至るまで子孫を残しており、その中には今上天皇をはじめとする現在の皇族(男性皇族および内親王女王全員)も含まれている。

補注

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登場作品

  • 日本仏家人名辞書