大正区
テンプレート:Pathnav テンプレート:日本の行政区 大正区(たいしょうく)は、大阪市を構成する24区の一つである。
目次
地名と由来
区名
大正区の区名は、木津川に架かる大正橋(たいしょうばし)から命名された[3]。区名制定にあたり住民に区名を募集した際「大正橋区」を希望する声が多かったが、「大正橋区」では長いとして最終的に大正区に決定した。なお、区名の由来となった大正橋は大正4年竣工であるが、大正区自体は大正時代ではなく昭和7年に設置された区である。
町名
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- 三軒家西
- 三軒家東
- 泉尾
- 千島
- 北恩加島
- 北村
- 小林西
- 小林東
- 平尾
- 南恩加島
- 鶴町
- 船町
三軒家の地名は、江戸時代初期の開発当時に3軒の民家があったことが由来となっている。三軒家は摂津国西成郡木津村の中村勘助(木津勘助)によって開発された。
北村および泉尾(いずお)の地名は、江戸時代にこの地を開発した北村六右衛門に由来する。北村は姓をそのまま取り、また泉尾は北村六右衛門の出身地・和泉国大鳥郡踞尾(つくの)村(現在の堺市西区津久野町)から、和泉国の「泉」と踞尾村の「尾」を組み合わせて命名された。
北恩加島(きたおかじま)・南恩加島(みなみおかじま)・千島・小林の地名は、江戸時代にこの地を開発した岡島嘉平次に由来する。北恩加島・南恩加島については、開発者・岡島嘉平次への敬意を示すため、この地を担当していた代官が「岡島」を「恩加島」の表記に変更した。また千島および小林は、岡島嘉平次の出身地・摂津国東成郡千林村(現在の大阪市旭区千林)からとっている。
平尾の地名は、江戸時代にこの地を開発した平尾与左衛門に由来する。
船町および鶴町の地名は、万葉集の和歌から町名がとられている。船町や鶴町など区の南西端は明治以降の大阪港第一次修築工事の際に埋立・開発がすすめられた町である。なおこの地にはかつて鶴浜通・福町の地名もあり、これらの地名も万葉集からとられていたが、住居表示の実施によりいずれも鶴町に統合される形で姿を消している。
地理
大正区は、かつての淀川水系と大和川水系により運ばれた土砂により出来た大阪湾の三角州の1つであり、運河により更に3つに分かれている。
北を頂点として、南の辺が約2.8km、南北の長さが約4kmの三角形の形をしている。東と南には木津川、西には岩崎運河、尻無川が流れ、西端は大阪湾に接している。区の内部には、人工港湾の大正内港があり、木津川から分かれ、南恩加島・鶴町と船町との境界を成す木津川運河がある。北端に、JR西日本と大阪市営地下鉄の大正駅がある。また、南北の目抜き通りに大正通り、東西に国道43号が通る。
歴史
難波八十島と呼ばれた三角州地帯の南部に過ぎなかった当区域に人家が見られるようになったのは元和年間とされ、木津川尻の姫島に西成郡難波村から漁民3名が移住したのが始まりとされている(三軒家由来の他説)。その後、中村勘助による新田開発が始まり、姫島は勘助島や難波島と呼ばれるようになった。難波島は木津川口を塞ぐように位置していたため、1699年(元禄12年)に河村瑞賢によって島の中央部を開削する工事が行われ、木津川の流路が一直線になった。以降、同じく瑞賢の開削による安治川と並んで木津川は諸国物産を積んだ廻船で大いに賑わった。
新田開発は木津川改修工事とともに本格化し、新田開墾は願書を1698年8月(元禄11年)に提出、同年9月に許可された。町民(中村勘助、北村六右衛門、岡島嘉平次など)が行い、現在の町名はその開墾した人に由来する。なかでも岡島嘉平次は当区域に該当する全16新田のうち9新田の開発に携わっている。工事としてはまず堤防予定地の内側を掘り下げて溝を造り、その上げ土で堤防を築いて海水の侵入を防ぐ。この後堤防内を新田に開拓する。新田の雨水などは、一時溝にためて、干潮のときは堤防の水門をあけて排水し、満潮のときは水門を通じて海水の侵入を防いだ。江戸時代後期になるとほぼ現在の形になる。
1883年(明治16年)に三軒家にあった大阪紡績会社(現:東洋紡)がイギリスより日本で初めての蒸気式の紡績機を輸入し、大阪を日本一の紡績工業都市へと押し上げ「東洋のマンチェスター」とも呼ばれるきっかけを作った。また堀江など長堀沿いにあった材木市場が手狭になり、千島や小林に大きな貯木場が作られた。鶴町(現在の鶴町1丁目、船町渡船場付近)にはゼネラルモーターズの自動車工場(1927年から1941年まで)が、船町には中山製鋼所の製鉄所や日立造船などの造船所も作られ、近郊農村は阪神工業地帯の重工業集積地に姿を変えた。これらの大工場に働き口を求めて沖縄県から移住者が多く集まったことが、現在も続く沖縄県出身者のコミュニティ形成の主因となっている。川沿いの工場には大きな船が着岸するため、大正区を取り囲む川には(区の北端の大正橋などを除いて)橋は掛けられず、渡船が対岸とを結んでいた。市内からは大正橋を通り市電が鶴町までを結んでいた。この大正橋は1915年(大正4年)に開通した。
第一次世界大戦時には、小林付近にドイツ軍捕虜を、第二次世界大戦時には新千歳にアメリカ軍捕虜を収容したと言われる収容所があった。第二次世界大戦時、大正区全域が大阪大空襲により壊滅的な被害を出したが、一方で現在の大正中央中学校(当時大正尋常高等小学校と言われていた[4] )[5]附近にあった高射砲陣地にあった砲は、B29を1機撃墜させるなどの戦果を挙げている。[6]
工業化による地下水くみあげのために地盤沈下が起こり、洪水や高潮に弱くなったほか浸水被害が深刻なため、第二次世界大戦後になって貯木場や市街地を削って川を広げ大正内港を作る一方、出た土砂で区内に盛り土を行い、大正運河なども埋め立てられた。1980年代以降、産業構造の変化で重工業が振るわず中小の工場も廃業するものが出る一方、その跡地に大型店舗が立地したり、川沿いの立地を生かしたレストランやマンションの用地として活用されているものもある。
- 1889年(明治22年) - 町村制施行により、西成郡三軒家村・川南村が発足。
- 1897年(明治30年) - 大阪市第一次市域拡張により、三軒家村および川南村の木津川右岸が大阪市へ編入され、西区に含まれる。
- 1915年(大正4年) - 大正橋竣工。程なく大阪市電九条高津線が開通。
- 1916年(大正5年) - 木津川運河開削。
- 1920年(大正9年) - 岩崎運河開削。
- 1925年(大正14年) - 大阪市第二次市域拡張に伴い、新設の港区に含まれる。
- 1930年(昭和5年) - 区内で初めての市バスが運行する。(野田阪神~鶴町)
- 1932年(昭和7年) - 尻無川左岸かつ岩崎運河以南が港区より分区され大正区が発足。
- 1934年(昭和9年) - 小林町(現在の小林)に大正消防署を新設する。
- 1940年(昭和15年) - 防潮堤が完成する。(尻無川・木津川)
- 1941年(昭和16年) - 防潮水門9ヵ所完成する。
- 1943年(昭和18年) - 泉尾警察署を大正警察署と改称する。
- 1946年(昭和21年) - 大正区商店街連盟結成する。大正区防潮本部設置する。(水防団結成)
- 1955年(昭和30年) - 洪水対策としての防潮堤竣工。
- 1961年(昭和36年) - 天王寺 - 西九条間の国鉄大阪環状線開通する。大正駅開設される。
- 1970年(昭和45年) - 国道43号線・阪神高速西大阪線開通する。
- 1972年(昭和47年) - 大阪市環境局の大正工場が完成する。
- 1975年(昭和50年) - 第1回大正区民祭り開催される。
- 1995年(平成7年) - なみはや大橋開通する。
- 1997年(平成9年) - 大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線大正駅開通する。
- 2003年(平成15年) - 千歳橋完成する。
- 2012年(平成24年) - 沖縄返還40周年・大正区制80周年記念事業として、千島公園にて9月8日・9日に「綱・ちゅら・エイサー祭 〜与那原大綱曳in大正区〜」が開催された[7]。
大阪府議会議員
大正区単独で1つの選挙区(大正区選挙区)を有し、定数は1人である。
- 金城克典(大阪維新の会・1期目)
交通
前述のとおり、大正区内には鉄道がほとんど整備されておらず、鉄道駅は大正駅が北端に所在するのみである。
区内の公共交通はおおむね大阪市営バスが担っている。南部の鶴町地区(鶴町四丁目停留所)と大正駅(大正橋停留所)との間は早朝から深夜まで比較的運行頻度が高く、昼間でもあまり待たずに乗れる程度の本数を確保している。また、朝ラッシュ時の大運橋通と大正橋間は1分未満の間隔で運行しているなど運行頻度は特に高いが、テンプレート:要出典範囲。※大阪市営バス鶴町営業所も参照。
なお、大阪市営地下鉄の長堀鶴見緑地線を鶴町地区まで延伸する計画がある。
鉄道
道路
橋梁
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- 大船橋
- 新木津川大橋
- 大運橋
- 西福橋
- 南福橋
- なみはや大橋
渡船
大正区は河川や運河などの水路に囲まれた地域であるため、公営渡船が数多く運航されている。歩行者および自転車専用で、運賃は無料。港湾局による木津川渡以外は大阪市建設局による運航である(大阪市には全部で8箇所の公営渡船があるが、その内7箇所が大正区と関わりがある)。
※大阪市の公営渡船も参照。
教育
高等学校
中学校
小学校
幼稚園
- 大阪市立
- 三軒家西幼稚園
- 泉尾幼稚園
- 私立
- 昭和幼稚園
- 北恩加島幼稚園
- 南恩加島幼稚園
- 昭光幼稚園
専修学校
施設
公共施設
- 泉尾公園
- 昭和山(千島公園)
- 大阪市立大正図書館
- 大正地区文化交流プラザ
- 大正区ふれあい福祉センター
- 大正区老人福祉センター(トモノス大正)
- 大阪府警 大正警察署
- 大阪市消防局 大正消防署
- 大阪市交通局(大阪市営バス) 鶴町営業所
- 大阪市建設局 千島下水処理場
- 大阪市環境局 大正工場
医療機関
商業
商店街
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- 大正橋商店会
- 三泉北商店街
- 三軒家中央商店会
- 三泉商店街
- 泉尾中一商店会
- 泉尾中央商店街
- 泉尾中通商店街
- 泉尾商店街
- 千島商店会
- パルティ千島商店会
- 平尾本通商店街(サンクス平尾)
- 大運橋本通商店会
- 鶴町商店会
主な大規模商業施設
寺社・宗教施設
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- 神明神社
- 八坂神社
- 泉尾神社
- 高天原本宮
- 小林産土神社
- 天満宮
- 地蔵院
- 眞光寺
- 順教寺
- 万福寺
- 南天山西福寺
- 専称寺
- 日蓮宗宗徳山真行寺
- 妙法寺
- 東林寺
- 了照寺
- 呑海寺
- 高野山真言宗大運寺
- 真宗大谷派正等寺
- 帰命寺
- 鶴町高野山普照教会
- 金光教泉尾教会(泉光園)
その他
かつて存在した主な施設
- 木津川飛行場 - 伊丹空港開業に伴い機能の大部分を移転したが、のちに廃港。
- 大阪俘虜収容所 - 第一次世界大戦時の1914年(大正3年)11月11日にドイツ軍捕虜760名が収容された。そののち、1917年(大正6年)2月に閉鎖され、似島(広島市南区)へ移転した。
- 大阪市電大阪市電鶴町車庫
本社を置く主な企業
出身者
舞台とする作品
脚注
参考資料
- 『大正区の歴史を語る』 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年
外部リンク
- ↑ テンプレート:PDFlink p.7 - 大正区(2011年9月13日付、2013年11月21日閲覧) ※筋原区長による発言部分。
- ↑ テンプレート:PDFlink(「立命館地理学」第17号、2005年、p.87-99) - 真鍋一弘 著、立命館地理学会 発行(立命館大学、2013年11月21日閲覧)
- ↑ 大正橋西詰の記念碑の記述より。
- ↑ 『大正区の歴史を語る』 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年p.68
- ↑ 『大正区の歴史を語る』 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年p.43
- ↑ 『大正区の歴史を語る』 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年p.43・68
- ↑ テンプレート:Cite web