神仏分離
テンプレート:Sidebar with heading backgrounds 神仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。
その動きは早くは中世から見られる[1]が、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏分離令(正式には神仏判然令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達[2]の総称)に基づき全国的に公的に行われたものを指す。
前近代の神仏分離
江戸時代に入ると、岡山藩や水戸藩、淀藩、会津藩等の儒教が興隆した藩を中心に神仏分離政策が行なわれた。出雲大社でも17世紀に神仏分離が行われている。
明治時代の神仏分離
1868年、明治政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した[3]。
神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった[4]。政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた[4]。
神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院の腐敗に苦しめられていた民衆がこれに加わった。腐敗の例として、戒名代が少ないことを理由に、僧侶から破門を仄めかされる(破門されると切支丹と見做される)。
政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年3月14日(1872年4月21日)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となった。
神仏分離は、儒家神道や水戸学・国学における廃仏論、近世前期における水戸藩・岡山藩・会津藩での寺院整理から近世後期および幕末の水戸藩・津和野藩での社寺改正、白川家・吉田家から神道裁許状を受けた御師による全国的な活動など、近世の思想的・政治的・社会的状況に淵源をもつ。それゆえ、明治初期の神仏分離は政府による政策の面だけではなく、それを受け入れる社会的土壌がすでに形成されていたと見ることができる。
脚注
- ↑ 宮中においても即位灌頂・大元帥法・御斎会をはじめとする仏教儀礼の導入が行われる一方で、神仏隔離・神事優先の原則が古代より一環として守られている分野が存在しており、公家社会においても仏事と神事の間では神事優先の理念が強かった(井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、p.168-169・172)。
- ↑ 太政官布告・神祇官事務局達・太政官達など
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 4.0 4.1 テンプレート:Cite book
参考文献
- 安丸良夫『神々の明治維新』神仏分離と廃仏毀釈 岩波新書 黄版 103 岩波書店 ISBN 4004201039
- 羽賀祥二『明治維新と宗教』筑摩書房 ISBN 4-480-85670-6
- ジェームス・E. ケテラー『邪教/殉教の明治 廃仏毀釈と近代仏教』ぺりかん社 平成18年(2006年) ISBN 4831511294
- 佐伯恵達『廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち 改訂版』みやざき文庫20 鉱脈社 ISBN 4-86061-060-1
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- 岡田荘司〈編〉『日本神道史』吉川弘文館 平成22年 ISBN978-4-642-08038-5