ザンスカール

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ザンスカールの女性と子供たち。夏の間、女性と子供たちは放牧のために谷を出て生活する。同じような習慣はヨーロッパアルプスにも見られる。

ザンスカール (Zanskar) は、カルギル地方(インド北西部のジャンムー・カシミール州の一部)にある高地の地名である。チベット系民族が住み、広義のラダックの一地方とも見なされる。ラダック王国に服属していたが、19世紀に同王国とともにカシミール王国へ併合された。また古くはグゲ王国 (Guge) や吐蕃王国の版図に属していた。ザンスカールはチベット語で「白い銅」を意味し、の産地として知られていたことに由来する。チベット文字ではཟངས་དཀར། (zangs dkar) と書き、テンプレート:仮リンクではザンスカール、標準チベット語ラサ方言)ではサンカルと読む。ザンスカール当地の方言でもザンカルに近い。テンプレート:仮リンク (dpa' gtum: Padum) がこの地方の中心都市である。

地理

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ザンスカールの位置

ザンスカールは標高3500mから7000mに及ぶ高地で、約7000平方キロメートルの面積がある。このザンスカール高地はザンスカール河の2つの支流域から成る。ドダ河(Doda)はペンシ峠(Pensi-La,4400m)の近くにその源があり、パドゥム(Padum,ザンスカールの首都)の方へ延びている本谷に沿って南東に流れている。もう一つの支流はルンナク河(Lungnak)(またはリンティLingti、あるいはツァラプTsarapとも言う)で、その河はさらに二つの支流に分かれる。

一つはシンゴ峠(Shingo-La)の近くを源流に持つクルギアク河(Kurgiakh-chu)である。もう一つはバララチャ峠(Baralacha-La)の近くを源流に持つツァラプ河(Tsarap-chu)である。これらの2本の支流は、プルネ村(Purne)の下で合流し、ルンナク河になる。ルンナク河は北西方向に延びる非常に険しい渓谷を通り、パドゥム谷に流れ込む。そこでドダ河と合流しザンスカール河となる。

ザンスカール河は、ラダックでインダス河にぶつかるまで北東方向に進む。ドダ谷とリンティ-クルギアク谷(Lingti–Kurgiakh)の両側には北西から南東方向に延びる高山帯が横たわっている。

ザンスカールの南西方向にはヒマラヤ山脈があり、ザンスカールをキツワル(Kisthwar)とチャンバ盆地(Chamba)から隔てている。北東方向にはザンスカール山脈があり、ザンスカールをラダックと隔てている。全てのザンスカールの河川はザンスカール河に注ぎ、ザンスカール山脈に切り立った渓谷を形成し、この地方唯一の出口となっている。

これらの地形上の特徴は、ザンスカールへのアクセスの難しさを説明している。ヒマラヤ地域との交流は、結氷期のザンスカール河と山岳地帯を通ることによって行なうしかない。カルギリからのもっとも簡単なアプローチでも、険しいスル谷を通り抜けペンシ峠を越えなければならない。1979年このルートにザンスカールにおける唯一そして初めての自動車道ができた。この自動車道によってパドゥムが、ラダックを通りスリナガルと結ばれた。

これほど辺鄙な場所であったため、最近までここを訪れた西洋人は非常に僅かであった。ハンガリー人チベット研究家のテンプレート:仮リンクAlexander Csoma de Kőrös)がこの地を訪れたのは1823年であるが、それがおそらく西洋人として最初であると思われる。しかも、パキスタン中国との国境紛争のため1974年まで外国人は立ち入り禁止にされてしまった。

植物と動物

ザンスカールの植物のほとんどは谷の下流域で見られ、高山植物寒帯植物から成る。幾万ものエーデルワイスでおおわれた草原は、ザンスカールで最も印象的な光景である。標高の低いところでは大麦レンズ豆ジャガイモなどが収穫される。その地域ではヤク、ゾー(dzo 水牛と思われる)、羊、馬と犬のような家畜も見ることが出来る。

ザンスカールで見つけるとこの出来る野生動物はマーモットクマオオカミユキヒョウ、キャン(Kiang ウマ科の動物・チベットロバ)、バーラル(ヒマラヤン・シープ)、アルペン・アイベックスがいる。そのほかに野生のヒツジとヤギ、ヒゲワシなども見られる。

気候

ザンスカール高地は、ヒマラヤ山脈の北にある高地の半砂漠地帯に位置する。ヒマラヤ山脈はラダックとザンスカールをモンスーンから隔てる障壁となっている。そのため、夏には乾燥して快適な気候となる。ここ数十年間、年間降水量は増加傾向を示しているものの、夏季の降水量は不足している。

古代から、ザンスカールの村々には遠方から水が引かれている。水は畑に撒かれたり、水車などもにも利用されてきた。最近の干ばつにより水源が枯渇し、見捨てられた村も出てきた。

大部分の降水は厳しくて長い冬季に雪として降ってくる。ザンスカールの家屋は概して頑丈であるが、増加した降雪のため屋根が壊れるなどの被害が発生している。ザンスカールの地元民にとっては初めての事態である。冬の間に降った雪は降り積もって氷河になる。氷河は夏になると融けて、重要な灌漑用水となる。

人々

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マニ石 ザンスカール
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タンツェと呼ばれる旗。人々は祈りをこめてこれをゴンパや峠に掲げる。
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ザンスカール南東部にあるプクタル僧院
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輪廻を表す曼荼羅

ザンスカールの人口は少ない。1971年の最後の国勢調査によると、人口は6,886人であった。2005年では約10,000人程度であると予測される。

主な宗教はチベット仏教である。その一方でシャーマニズムの影響も強く残っている。また、イスラム教シーア派の少数民族も住んでいる。

ほとんどの住民は散らばった小さな村々で生活している。最も人口が集中する町は首都のパドゥム(Padum)で、人口は700人ほどである。ザンスカールのほとんどの村はザンスカール河と、その2つの支流域にある。この地域は隔離されており、住民は最近までほとんど完全な自給自足で生きてきた。しかし、宗教的な道具や工芸品、宝石のため外部との交易は常に必要とされてきた。

ザンスカール人の主な仕事は牛の飼育と、耕作である。耕作地は自前である。耕作できる土地は不十分で、扇状地と棚畑に制限される。4000m以上の高度にはほとんど耕地はない。ザンスカール人はこのような厳しい環境で食物を得るために、集約的な農耕農業と複雑な灌漑のシステムを開発した。それでも耕作できる土地は不足しており、人口増加は抑えられてきた。ザンスカールには兄弟で妻を共有する一妻多夫制があり、これが効率的な産児制限システムとなった。また、高い乳児死亡率も人口安定性の一因となっている。

家畜

ザンスカールでもっとも重要なものは家畜、特にヤクである。ヤクは穀物を脱穀したり、土地を耕したり、荷物の運搬に使われたりする。また、ヤクの糞は肥料になるだけではなく、乾燥させてこの地方唯一の燃料になる。さらに、乳を採り、肉を食べることもある。ヤクの毛皮は、衣服、カーペット、ロープ、ベッドカバーの原料となる。

歴史

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10世紀頃から、ザンスカールは2つないし4つの血族関係のある諸侯によって構成されていた。このころ、テンプレート:仮リンク(Karsha)とテンプレート:仮リンク(Phugtal)が建設された。15世紀以降はテンプレート:仮リンクの属領として服属し、そのあとの運命を幸不幸ともに共有することになる。1822年、クルとラホール、キンナウルの連合がザンスカールを侵略し、パドゥム王宮を破壊する。1842年、ラダック王国はインドのテンプレート:仮リンク(1846年 - 1947年)の一部として併合される。

カシミール紛争によってラダック王国の旧領土はパキスタンと中国に分割されたが、ザンスカール地方はラダック中央部とともにインド支配地域となっている。

観光

ザンスカールは11月から5月までは寒さと大雪のため、この時期の旅行は非常に難しい。この時期に入る旅行者は慎重に準備をしたうえ、知識のあるガイドを雇う必要がある。一方、夏季の間はザンスカール全域を訪れることが出来る。ザンスカールにアクセスする最も良い方法はトレッキングであるが、ジープを借りたり、バスで行くこともできる。パスはカルギルからペンシ峠を越えてパドゥムに入る。

パドゥムに興味がなくても、パドゥムに入りさえすればパドゥム(Padum)-トンデ(stong sde: Stongdey, Thonde)-ザンラ(Zangla)-カルシャ(Karsha)-パドゥム(Padum)の一周旅行が可能になる。このコースはザンスカールの文化を堪能できる。もう一つのおすすめパドゥム周辺のコースは、スル谷とラダックからザンスカールを切り分けているペンシ峠(Pensi-La 4200m)に通じるコースである。

ザンスカールに入るルートでもっとも人気のあるトレッキング・ルートは、ダルチャ(Darcha)またはサルチュ(Sarchu)からマナリ-レー道を経てパドゥムに入るルートと、ラマユル(Lamayuru)からスリナガル-レー道を経てPadumまでいたるルートである。両方とも走破するには10日ほどかかる。

旅行者の存在はザンスカールに大きな影響を与えるだろう。この地域が外国人に開放されたことで、教育施設への融資が行われたり、僧院や道路の改修が行われたりしたが、高山帯の脆弱な自然環境やそこに住む人々の生活に甚大な影響を与えてしまった。それは、旅行シーズンの終わりのトレッキングルートやキャンプサイト周辺のゴミ捨て場にますます見られる。しかもそれだけではなく、地域の住民は旅行者に対してしばしば反感を示したり、物を盗んだり、物乞いをするようになってしまった。

関連項目