加藤シヅエ

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加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田、本名:静枝、1897年3月2日 - 2001年12月22日)は、日本の婦人解放運動家・政治家。父は工学者廣田理太郎、夫は政治家加藤勘十、娘はコーディネーター加藤タキ称号東京都名誉都民。早くから産児制限に関わり、「不良な子孫の出生を防止する」と謳われた1948年の優生保護法成立に、同じ日本社会党所属の衆議院議員である福田昌子太田典礼と、政治的には保守派であった参議院議員谷口弥三郎と共に深く関わった。

来歴

概要

東京に裕福な実業家の家庭に生まれ、日本文化・西欧文化の両方に接して育つ。1914年に女子学習院中等科を卒業してすぐ、27歳の石本恵吉男爵と一度目の結婚。男爵は三井財閥系の三井鉱山に在籍しており、労働者の実態調査で三井三池炭鉱へ赴任する。新婚早々炭鉱町に移り住むことになり、悲惨な炭鉱労働者の生活を知る。数年後、夫が労働問題の研究でアメリカへ渡ると、夫の後を追い二人の幼子を日本に残して1919年に渡米。職業婦人になることを勧められ、ニューヨークのバラード・スクールに学ぶ。後に秘書学コースを優等で卒業する。その頃、貧民街での産児調節運動を啓蒙するマーガレット・サンガーと出会う。サンガーの思想が炭鉱町にも必要であることを痛感し、日本での運動を決意する。帰国直後の1922年に社会運動に理解のあった夫と共にサンガーを日本に招待し、講演会などを大々的に行った。これを機に日本での産児調節運動をスタートさせた。

1931年日本産児調節婦人連盟を設立し、会長に就任する。1934年に、産児制限相談所を開設。1932年1936年にはアメリカへも講演旅行を行った。その一方で、石本男爵は満州に赴任。その際に革命後のソ連への入国を図るが失敗。軍国主義・植民地支配に賛成し協力する思想に転向する。戦争が勃発し日中戦争によって相談所は閉鎖される。長男は出征し、次男は結核で病死。音信不通になった夫の負債のために自宅を売却することになり、ついに離婚を決意。1944年3月に異居中だった夫と離婚が成立し、同年11月労働運動家の加藤勘十と結婚。1945年には、48歳で長女の多喜子を出産した。

1946年4月の敗戦後はじめての総選挙である第22回衆議院議員総選挙に当選し(初の女性代議士39名の中の1人でもある)、日本社会党に入党する。1947年12月には人工妊娠中絶と強制的不妊手術を合法化する目的で、優生保護法の法案を福田昌子と太田典礼の3人で提出する。法案の提案理由として、加藤は戦後の人口増加と共に、以前の国民優生法が「実際には悪質の遺伝防止の目的を達することが、ほとんどできないでいる」事を挙げた[1]。翌年に優生保護法は成立した。

1950年第2回参議院議員通常選挙に全国区より当選。後1974年7月の政界引退まで参議院議員となる。1970年春、勲二等宝冠章受章。

1954年日本家族計画連盟を結成。1974年に、同連盟会長に就任する。1979年に日本社会党を離党する。離党後は社会民主連合(社民連)・日本新党新生党新進党などを支援した。

1988年に、国連人口賞受賞。1993年に、女性のための政治スクール名誉校長に就任。1995年に、家族計画国際協力財団(現在の国際協力NGOジョイセフ)の会長となる。

2001年12月22日、呼吸不全のため死去。享年104。翌年にシンガーソングライターのさだまさしが「勇気凛々〜故 加藤シヅエ先生に捧ぐ〜」という楽曲を出している。加藤はさだの代表曲関白宣言がお気に入りで、「男はこれでよろしい、女もこれでよろしい、愛はこうでよろしい」とさだにエールを送ったこともある[2]

年表

作品

著作

翻訳

  • 火野葦平『麦と兵隊』英訳、Wheat and soldiers,<I> Baroness Shidzué Ishimoto.(New York [etc.] Farrar & Rinehart, inc. [c1939])
  • メリー・ビアード『日本女性史』1953年河出書房
    • 2008年、クレス出版、〈日本女性史叢書22〉に再録

加藤シヅエを演じた女優

脚注

  1. 衆議院厚生委員会 - 35号 昭和22年12月01日
  2. さだまさし「夢百合草」ライナーノーツ

関連項目

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