戸石城

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テンプレート:Infobox 戸石城(といしじょう、砥石城)は、信濃国小県郡(現在の長野県上田市上野)にあった城郭。形式は山城。別名に砥石城。長野県指定史跡[1]

地勢

東太郎山の尾根上に築かれ、南の上田平や北東の真田郷を一望できる位置にあり、南東には北佐久を望むことも出来る。西側には神川が南西へ流れ、千曲川と合流。上州街道を真田郷を経て鳥居峠を越えると上野国吾妻郡に至る。南西部には上田原が広がり、千曲川沿いに下ると埴科郡を経て善光寺方面へ至り、逆に上流へと遡ると佐久郡を経て上野国や甲斐国に至る。また上田原を更に西に進み和田峠を超えると筑摩郡へと至る。本城を中心に、北の枡形城、南西の米山城(小宮山城)、南の砥石城などを含めた複合城郭。

歴史

築城年代は不明だが、隣接する真田郷に興った真田氏の外城として築城されたのが最初とされている(当時の状況は不明)。天文10年(1541)に真田氏が追われたのち、村上義清小県郡佐久郡方面の拠点として大改築した(戸石城は、元々南側の出城の名前であったものが、いつしか城全体の呼称になったとも言われている)。

戸石城の位置は村上氏の本拠地埴科郡と上田平との境目にあたり、小県の村上領(塩田荘など)と本領を結ぶ結節点となる最重要拠点と位置づけられ、額岩寺光氏や山田国政ら有力な諸将が配された。その後、佐久郡から進出を狙う甲斐の武田晴信(信玄)との間で激しい攻防が繰り広げられ、特に天文19年(1549年)の武田軍の一方的とも言える敗退は「戸石崩れ(砥石崩れ)」と呼ばれる。この時の状況については「妙法寺記」に、「この年の9月1日に信州砥石の要害を御除け候とて、横田備中守をはじめとして、随分衆千人計り討死なられ候。されども御大将は、よく引きたまわり候」と記されている。この敗戦により力攻めを諦めた武田氏は、家臣真田幸隆に攻略を命じ、『高白斎記』によれば調略によって城内に内通者を出し、天文20年(1551年)5月に陥落させる。

同城は真田氏に与えられ、村上氏は本拠地である埴科郡が武田勢の直接的な脅威にさらされることになり、以後は大勢を挽回できずに配下の諸豪族の離反を招き、滅亡に至ることになる。村上氏滅亡後は、主戦場が北部の川中島方面に移ったこともあり、歴史に登場するのは上田合戦において支城として利用された時ぐらいとなる。

近年の発掘ではめぼしい遺構が発見されず、天正11年(1583年)に尼ヶ淵に上田城が築かれるまでの真田氏の本城は真田本城だったと考えられている。

脚注

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関連事項

外部リンク

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