江副浩正
テンプレート:Infobox 人物 江副 浩正(えぞえ ひろまさ、1936年(昭和11年)6月12日 - 2013年(平成25年)2月8日)は、日本の実業家。特例財団法人江副育英会理事長。株式会社リクルートの創業者。1988年(昭和63年)に発生した「リクルート事件」の贈賄側人物として知られる。
目次
概要
甲南中学校・高等学校を経て、東京大学教育学部教育心理学科卒業。
リクルートを創業し、大企業に成長させた[1]。1988年(昭和63年)1月会長に就任、同年6月に「リクルート事件」報道が始まり、1989年(平成元年)2月に逮捕[1]。リクルート裁判は14年間、開廷数322回に及び、日本の裁判史上記録的な数字であった[1]。2003年(平成15年)3月、執行猶予付き有罪判決を受けた[1]。
その後、投資や執筆業、慈善事業などを中心に活動していたが、2013年(平成25年)2月8日、肺炎のため東京都内で死去[2][3]。
経歴
生い立ち
1936年(昭和11年)6月、江副良之、マス子の長男として母親の郷里の愛媛県越智郡波方村(現在の今治市)に生まれた[4]。父・良之は教師。良之の最初の赴任校、今治実科高等女学校の教え子が浩正の実母マス子(旧姓菊川)である[5]。
江副一家はその後、大阪市天王寺区上本町八丁目に移ったが、戦災によってこの家を失い、豊中市末広通二の二の借家に移転した[6]。
学生時代
豊中市立克明小学校から甲南中学・高校に進学。
当時、甲南に通う生徒は、高級住宅地の芦屋、御影に邸宅を構える資産家の子弟か、中流以上の家庭の子弟が大半で、数学教師の息子にすぎない江副のような生徒は、きわめて少数派の部類に属していた[7]。
江副は勉強でもスポーツでも飛び抜けたところはなく、同級生の間に印象らしい印象を残していない[8]。
江副以外は医大を目指す受験生ばかりで、東大受験を有利に運ぶため英語より受験生が少なく、問題も易しかったドイツ語を選択した江副のような生徒は異例中の異例だった。江副の東京大学合格は甲南の同級生たちの間でしばし話題となった[9]。
起業
大学在学中に財団法人東京大学新聞社で企業向けの営業を覚えた江副は、リクルートの前身である株式会社大学広告を設立。起業時には、東京大学新聞編集部の先輩である森稔が経営する賃貸ビル「第2森ビル」の屋上に仮設事務所を借りて事業を行った[10]。大学広告は大学新卒者向けの「企業への招待」(リクルートブックの前身)を発行し、求人広告という業界の地位を大きく向上させた。その後、不動産、旅行、転職情報などに進出した。
東京の一等地の不動産に建物を建てるほどリクルートを成長をさせたが、新興企業であることで既存の大企業からは距離を置いて見られ、財界では孤立していた。財界でリクルートを注目させるべく政界を初めとして様々な業界との交流を深めようとしたが、それがリクルート事件のきっかけとなった。
リクルート事件
テンプレート:Main 1988年(昭和63年)、いわゆる「リクルート事件」が発覚、国会での証人喚問に召喚された。同年、リクルート会長を退任。1989年(平成元年)2月に贈賄容疑で逮捕され、贈賄罪で起訴。2003年(平成15年)に東京地裁にて懲役3年執行猶予5年の有罪判決を受け、被告人・検察とも控訴せず同判決は確定。
リクルート事件における東京地裁での公判回数は322回であり、東京地裁での公判回数としては歴代1位である。検察側が提出した江副の供述調書に対して弁護側がことごとく違法性を主張することなどを初め、検察・弁護双方が争点が大きくなり、市販の解説書を読めば分かることまで証人尋問を求めるなど、公判が紛糾したためである。判決では大小53に上る争点について書かれた。
また、リクルート事件発覚後の1988年(昭和63年)8月には、自宅玄関に一発の銃弾が打ち込まれ、後の犯行声明によって当時一連の右翼テロ事件(赤報隊事件)の一つと判明した。
晩年
1971年(昭和46年)にヴィンチェンツォ・ベッリーニの『ノルマ』を観て以来のオペラ愛好家でもあり、2001年(平成13年)からオペラの興行団体「株式会社ラ ヴォーチェ」の代表を務める他、新国立劇場東京オペラシティの支援に尽力している。
リクルート事件に関しては長らく心の傷を引きずり、その多くを語ることはなかったが、2009年(平成21年)の手記『リクルート事件・江副浩正の真実』で初めて当時の心情を縷述した。
死去
エピソード
- 1992年(平成4年)、ダイエーはリクルート株の約10%を取得して傘下に収め、同株を売却した江副は約400億円の売却益を得られたとされた。
- 江副のスキーの腕前はプロ級であり、安比高原スキー場(岩手県)を1981年(昭和56年)に開業したのもリクルートである。
家族・親族
江副家
- 父・良之(教員)
- 1903年(明治36年)7月佐賀市赤松町で生まれた[5]。1923年(大正12年)佐賀中学から同校の物理の助手を経て九州帝国大学に併設された第八臨時教員養成所に進んだ[5]。同所を卒業後今治実科高等女学校(現今治明徳高等学校)教諭として以後52年間にわたる教員生活のスタートを切った[5]。最初の赴任校今治実科高等女学校の教え子が浩正の実母マス子(旧姓菊川)である[5]。良之は長野県立飯山中学、大阪府立茨木中学、桃山中学、北野中学、大阪市立第七商業学校、大谷女子高校と人並み以上に職場をかえた[5]。かつての上司によれば良之がよく職場をかえたのは彼の狷介な性格によるところが大だったという[5]。1981年(昭和56年)6月5日、77歳の生涯を閉じる[5]。
- 母・マス子(旧姓菊川)
- 今治実科高等女学校の卒業時、総代で答辞を読んだマス子は、大阪の大丸デパートに勤めていたが、そこで偶然、母校の教師だった良之と再会をしたことが結婚のきっかけとなった[11]。愛媛の実家で浩正を生んだマス子はその後良之に言われるまま夫の故郷の佐賀市赤松町で過ごした[11]。マス子が3歳になる浩正を連れて大阪に帰ったのは1940年(昭和15年)春のことだった[11]。だがマス子は夫良之の許に身を寄せたわけではなかった[11]。当時良之はダンサーと同棲まがいの生活を始めていた[11]。マス子は仕方なく製鉄会社に勤める兄の家に身を寄せる他なかった[11]。マス子が大阪に戻ったことを知った良之は妹をよこして浩正だけを天王寺の家に連れ帰るという暴挙に出た[12]。マス子は一方的に離縁を申し渡された[12]。
著書
- 『リクルートのDNA 起業家精神とは何か』 角川書店、2007年3月 ISBN 978-4-04-710087-9
- 『かもめが翔んだ日』朝日新聞社、2003年10月 ISBN 978-4021000812
- 『不動産は値下がりする! 「見極める目」が求められる時代』 中央公論新社、2007年8月 ISBN 978-4-12-150252-0
- 『リクルート事件・江副浩正の真実』中央公論新社、2009年10月
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 『日本の創業者 近現代起業家人名事典』449頁
- ↑ 江副浩正さん死去 リクルート創業者、未公開株事件も 朝日新聞 2013年2月9日付記事
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』10頁によれば「戸籍上の出生地は、大阪市天王寺区上之宮町∞番地である。夫婦の間には女の子が生まれていたが、生後半年で肺炎にかかって死亡していた」という。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』筑摩書房、1999年、12頁
- ↑ 佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』11頁
- ↑ 佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』筑摩書房、1999年、18頁。
- ↑ 佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』筑摩書房、1999年、19頁。
- ↑ 佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』筑摩書房、1999年、19頁。
- ↑ 森ビル会長森氏死去・粘りの交渉で超大型案件 『日本経済新聞』 平成24年3月13日朝刊 企業3面
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』15頁
- ↑ 12.0 12.1 佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』筑摩書房、1999年、16頁。
- ↑ 佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』筑摩書房、1999年、37頁。
外部リンク
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