千葉宗胤
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千葉 宗胤(ちば むねたね)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。千葉氏の第9代当主。第8代当主千葉頼胤の長男。
概要
北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第8代執権・北条時宗より偏諱を受けて宗胤と名乗る[1]。
元寇による負傷がもとで没した父頼胤に代って宗胤は異国警固番役として九州に赴き大隅国守護職[2]を与えられた。永仁2年(1294年)1月16日、30歳の若さで死去。
千葉介家の本領千葉荘は、宗胤の嫡男胤貞が遠方の地にあったこと、また、若年でもあったことから、宗胤の留守を預かっていた弟胤宗が実質的に領有する処となる。
宗胤は、父頼胤から千葉介家の本領千葉荘を継承した他、母を介して祖父千田泰胤の領した千田荘や八幡荘・臼井荘および肥前国小城郡を継承しており[3][4]、宗胤の没後嫡男の千葉胤貞は千田荘を本拠として胤宗の子貞胤と千葉氏宗家の家督を賭けて争うが、貞胤が降伏した直後に自身が病没したため宗家復帰はならなかった。千葉氏宗家の家督は、胤宗の系統が継承することとなる。
その後貞胤の子孫は千田氏として千田荘を領し、肥前国小城郡にあった次男胤泰の子孫は九州千葉氏(肥前千葉氏)として存続した。
娘は下総国猿島郡石井郷の石井忠成に嫁いだと伝わり、宗胤の玄孫忠国は肥前石井氏の祖となった。
参考文献
外部リンク
脚注
- ↑ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった千葉氏(菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年)もその統制下にあった。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163)、→詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰胤が北条泰時、頼胤が北条時頼、宗胤・胤宗兄弟が北条時宗、胤貞・貞胤が北条貞時、高胤が北条高時から1字を拝領したと考えられる(以上、紺戸論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.18)より)。以上、千葉氏当主が北条氏と烏帽子親子関係を結んだ旨は、服部英雄 「中世小城の景観・海から考える」(→PDF版)に明確に示されている。
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 弘安6年(1283年)12月には田一町を小城郡内円通寺に寄進している(安田、1990年、p.392)。