メフメト・アリ・アジャ
メフメト・アリ・アジャ(Mehmet Ali Ağca, 1958年1月9日 - )は、1981年5月13日にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世をバチカンのサン・ピエトロ広場で銃撃した人物。
青年時代
トルコのマラティヤ県テンプレート:仮リンクで生まれたアジャは若い頃に精神疾患を患い、軽犯罪を犯し故郷でストリートギャングの一員となった。その後トルコとブルガリアの間で密輸業に携わる。
次に彼はシリアへ行き、2ヶ月間の兵器とテロ戦術の訓練を受ける。彼はこの訓練をブルガリア政府からの資金援助の元に行われたと主張する。訓練後トルコの極右武装組織「灰色の狼」に参加する。アジャは自身を政治的背後の無い、報酬で動く傭兵だと主張する。1979年に彼は灰色の狼の指示の下、革新系のミッリイェト紙の編集者アブディ・イペクチをイスタンブルで殺害した。彼は密告者の報告で逮捕され終身刑が宣告されたが、灰色の狼の助けを借りて脱獄した。
教皇暗殺計画
アジャはブルガリアへ逃れ、ソフィアでブルガリアの情報機関と接触したと供述する。情報機関側は教皇暗殺の報酬として300万ドイツマルクを支払うと申し出た。ブルガリア当局は、ヨハネ・パウロ2世がポーランドの独立自主管理労働組合「連帯」を支援していたことから彼の殺害を企てたKGBからの指示を受け、アジャに接触したことが考えられる。しかしながら、エドワード・ハーマンやマイケル・プレンティを始めとする多くの人々が、アジャの話を曖昧であると疑う。その動機は明らかにされていない。
1980年8月から彼は地中海地域を行き交い、パスポートと身分証明を変更してソフィアからの足跡を隠した。彼は1981年5月10日にミラノから列車でローマ入りした。
ローマで彼は3人の共犯者である1人のトルコ人と、2人のブルガリア人に偶然出会ったと主張した。アジャの証言によればブルガリアの武官、ジロ・ヴァシエフによって作戦行動が命じられたとされる。
アジャとバックアップの狙撃者オラル・セリクは、サン・ピエトロ広場で銃撃を行った後爆弾を炸裂させ混乱を引き起こし、ブルガリア大使館へ逃亡する計画であった。5月13日、二人は教皇の到着を待つ間広場に座って葉書を書いていた。教皇が通り過ぎた時、アジャは二発銃撃した。アジャはたちまち群衆に捕まり、逃亡することも銃撃を続けることもできなかった。セリクもまた狼狽し、爆弾を炸裂させることも、教皇に銃撃することもできなかった。
供述の中でアジャは元パレスチナ解放人民戦線のメンバーであったと主張した。しかしPFLPはその関係を否定した。
その後
事件後ヨハネ・パウロ2世は人々に「私が許した、私の兄弟(アジャ)のために祈ってください」と語った。逮捕されたアジャは教皇暗殺未遂によりイタリアで19年間服役し、この間1983年に、ヨハネ・パウロ2世はイタリアの刑務所に収監されていたアジャに面会している。
2000年に教皇の恩赦により釈放後、トルコに送還された。トルコでは別の強盗および新聞編集長殺人事件で25年の実刑判決を受けていたが、イタリアで服役した19年間が刑に算入され、残り6年間の刑期を満了し、2006年1月12日にイスタンブルの刑務所から出所となった。
そして出所のわずか8日後の1月20日、再収監された。トルコ最高裁判所が出所を命じた先の地方裁判所決定に対する同国法相の異議申し立てを認めたため。同日、同国警察は、アジャ服役囚の身柄をイスタンブル市内で拘束し、20日中に刑務所に再収監した。
地裁は、トルコでの刑期からイタリアでの服役期間を差し引き出所を認めたが、最高裁は「トルコで起きた犯罪で、イタリアの服役期間を差し引く法的根拠はない」と判断した為、再収監につながった。
2010年1月18日に、刑期を完了し再出所した[1]。