ショプロン

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ショプロンSopron, ドイツ語Ödenburg, ラテン語Scarbantia)はハンガリージェール・モション・ショプロン県の町。ハンガリーの北西端に位置し、オーストリアブルゲンラント州に接している。ドイツ語名はエーデンブルクハンガリー王国時代はショプロン県の県都。

歴史

古代・中世

ローマ帝国時代にはすでに町が存在しており、スカルバンティア Scarbantia という名称であった。ローマ帝国時代の広場は、現在の市中心部の広場へと継承されている。民族移動時代には一時、廃墟となったと考えられている。ハンガリー領となり、9世紀から11世紀にかけてローマ帝国時代の城壁を修復し、シュプルン(Suprun)の名称であった。

1273年にボヘミア王・オタカル2世が町を支配し町の子供たちを人質として連行していったが、ハンガリーのラースロー4世が到着したとき、町はハンガリーに忠誠を誓いハンガリー軍を受け入れた。

16世紀にハンガリーの大部分はオスマン帝国領となったが、町はオスマン帝国領とはならなかった。そのため、オスマン帝国領から移住してきた人々により町は拡大した。1676年に町は大火に見舞われたが、その後復興に際してはバロック様式建造物が多く建造された。

近世以降

近世ではオーストリア=ハンガリー帝国領であったが、第一次世界大戦後のサン=ジェルマン条約およびトリアノン条約により、町の帰属は住民投票で決められることとなった。1921年12月14日に行われた住民投票において65%がハンガリーに投票した。これによりハンガリー領となり投票日の12月14日は町の記念日となった。

第二次世界大戦中は収容所が町に設置されている。1945年4月1日にはソ連赤軍の侵攻を受けた。冷戦中は東西陣営の境界の町であった。1989年には冷戦終結の一つのきっかけとなる汎ヨーロッパ・ピクニックがこの町で起きた。200名以上の東ドイツ市民がここより西側へ亡命した。

現在のショプロンはワインの生産地として栄えている。古い町並みが残ることから多くの観光客も受け入れている。また、16世紀以来のユダヤ人コミュニティがあったために、旧市街には古いシナゴーグなどが残されている。

ピクニック大会

テンプレート:Main 1989年8月、旧東ドイツ国民がピクニックと称して隣国のオーストリアに大量越境した。当時東ドイツから同じ東側陣営のハンガリーへの旅行は許されていた。旧西ドイツ国民は、チェコスロバキアを経由してハンガリーとオーストリアとの国境であるショプロンに東ドイツ市民を集めて、中立国オーストリア経由で西ドイツへ脱出させた。一部人々は切断した鉄条網を持って越境した。ピクニックを装った亡命に手を焼いた東ドイツは、市民たちの不満を和らげるため、その後西ドイツへの旅行を認めることになった。11月9日、東ドイツ当局の記者会見で、西側への旅行は認めるが許可が必要と発表。それを西ドイツのテレビ局が東側が国境を開放したと伝え、その情報が一気に流された。東側市民は西側のテレビを見ていたからである。そして騒ぎが始まった。テレビを見て真に受けた東側国民が国境沿いの検問に続々と集結し始めた。警備兵は何も知らされていないので止めようがなかった。東側市民は次々とゲートを開けて西側になだれ込んだ。こうして東西ドイツの対立は解消されるのである。東西冷戦終結上、特記される都市である。

建築物

有名な出身者、ゆかりの人物

姉妹都市

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外部リンク

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