五十嵐川

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テンプレート:Infobox 河川 五十嵐川(いからしがわ)は、新潟県三条市を流れる一級河川信濃川の支流。「いらし」ではなく「いらし」と発音する。

地理

新潟県三条市の南東の魚沼市との境界に位置する烏帽子岳 (1,350m) に源を発する。三条市大字塩野渕字御所から三条市内を北西へ流れ、三条市由利と三条市本町の境界で信濃川に合流する。

ほぼ全域にわたってアユヤマメウグイカジカなどが豊富に生息し、秋はサケが遡上し一括捕獲されているが、河川改修事業によりサケの一括捕獲も危ぶまれている。

名称の由来

三条市下田地区周辺は、第11代垂仁天皇の第八皇子五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)が開拓したと伝えられ、その子孫が「五十嵐」を名乗るようになった。五十日足彦命が開拓した地域に流れる五十嵐川の名称もこれに由来する。五十嵐は、豊作をもたらす「五風十雨」を意味する。五十嵐神社の祭神が五十日足彦命、五十嵐神社の立つ丘が五十日足彦命の陵墓とされている。

また、アイヌ語に由来した地名との説もある。 アイヌ語で物見をするような見晴らしの良い場所を「インカルシペ」または「インガルシ」などといい、北海道の遠軽町などの地名として現在も残っているが、「いからし」もその例に当たるという。この場合、流域の見晴らしの良い小山「要害山」が、名称の由来となった「インカルシペ」だろう[1]

支流

順不同

歴史

  • 明暦万治年間(1655年1661年):それまで高岡~籠場(旧三条市・下田村境)付近で三条方面と加茂の天神林方面に分流していた五十嵐川の流路を、現在の流れ(三条側)にのみにする工事が行われた。しかし三条側の流路はそのままであったため、上流部では川幅が広く下流部では川幅が狭い「とっくり瓢箪)型」の流路になり、上流部での大雨によって下流部で越水、氾濫、破堤しやすい遠因となったといわれる。
  • 1872年(明治5年)8月1日:信濃川・五十嵐川大洪水。嵐南地域は近世の史上希に見る惨状を呈し、松尾与十郎が嵐南築堤を決意する契機となった大水害が発生。
  • 1925年(大正15年)7月28日諏訪・曲渕切れの水害。五十嵐川左岸の諏訪・曲渕で破堤し、嵐南地域は浸水が1週間に及んだ。死者1名、負傷者27名、家屋流失6棟、全潰12棟、田畑冠水320町歩、被害額は116万円(当時価格)。
  • 1961年(昭和36年)8月5日8・5集中豪雨。五十嵐川に架かる新大橋が橋詰めの民家とともに流失し家族5名が流されるも4名は常盤橋で辛うじて救助されるが1名と消防署員1名が死亡。新大橋の流失に続き渡瀬橋、御蔵橋も流失など被害甚大。被害総額は8億6,746万円(当時価格)。
  • 1978年(昭和53年)6月26日6・26水害笠堀ダムが満杯、嵐南地域で越水破堤。
  • 1993年(平成5年):大谷ダム完成。
  • 2004年(平成16年)7月13日平成16年7月新潟・福島豪雨(7・13水害)。五十嵐川左岸(諏訪)の堤防が100mにわたり決壊。
  • 2011年(平成23年)7月29日 - 30日平成23年7月新潟・福島豪雨(7・29水害)。五十嵐川右岸(江口)の堤防が150mにわたり決壊。

橋梁

全ての橋梁の災害復興事業が終了している。特に右岸地域では堤防近くにまで住宅が迫り、豪雨の際には、堤防の決壊こそ無かったものの、水が溢れ出ることもあった。
下流より記載

河川施設

脚注

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外部リンク

  • 『東北・アイヌ語地名の研究』山田秀三 1993年 草風館
  • 災害当時の新潟日報や地元紙三条新聞の記事及び被害の概要図、またヘリコプターからの映像を分析すると、鉄道橋手前から決壊が広がっている映像がある。