火炎瓶
火炎瓶(かえんびん 火焔瓶とも表記)は、瓶(主にガラス製)にガソリン、灯油などの可燃性の液体を充填した、簡易な焼夷弾の一種である。「モロトフ・カクテル(Molotov Cocktail)」とも呼ばれる(「モロトフ火炎手榴弾」の項目および同項目のノートも参照)。
原始的な爆弾の一種とも言われるが、現在の日本の法律では爆弾とはみなされず、「火炎びん」という独自のカテゴリになる。これは炎上はしても爆発はしないため、このような分類となっている。
構造
投擲された火炎瓶は着地した衝撃で瓶が割れ、燃料が飛散するとともに発火する。つまり着発式の投擲武器といえる。
瓶にガソリンなどを入れ、布などで栓をするだけでも火炎瓶として機能する。この場合、火種(栓にした布に火をつけるのが一般的)をつけてから投擲する必要がある。密封が甘いと投擲時に詰めた布が外れてしまう事故が起きることがあり、投擲者自身に火がつくおそれがある危険な武器である。この素朴な方式の火炎瓶は身近な材料だけで製造できるため、急造兵器としてよく見られる。
これに対して塩素酸塩と硫酸の化学反応を利用して発火させる方式は点火の必要がなく、安全性でも優れている。具体的には片方の物質を火炎瓶の外側に塗布し、もう片方を燃料に混入して火炎瓶が割れたときに混ざるようにするものである。
使用例・法解釈
軍用としては手榴弾に比べて殺傷力が劣り、梱包爆薬ほどの破壊力もないため、専ら急造の対戦車兵器として使われる。敵装甲車両を炎上させて戦闘能力を低下せしめる。特にガソリンエンジンの車両は燃料に引火して爆発炎上しやすい。もちろん、兵士に対して使って殺傷することも可能である。
1936年からのスペイン内戦や、1939年のノモンハン事件の際に対戦車兵器として使用された。当時のソ連戦車はガソリンエンジンだったため、動力部に投擲するとよく炎上した。そこで日本軍は急造火炎瓶による攻撃を行い、戦果をあげた。一方で近年公開されたソ連側資料[1]では、火炎瓶そのものはさして脅威ではなかったとされている[2]。戦車の損害は主に対戦車砲によるものであり、火炎瓶は損傷した戦車に止めを差す形で多用された。
また、同年末の冬戦争の際にもフィンランド軍が対戦車兵器として使用し、「ソ連外相モロトフに捧げる特製カクテル」という皮肉を込めて[3]「モロトフ・カクテル」の名がつけられ、以降火炎瓶の代名詞となった(つまりは『フィンランド人民からのパン籠のお礼のカクテル』である)。英語では単に「モロトフ」と表現することもある。
戦後の日本においては1950年代に日本共産党が組織した山村工作隊や中核自衛隊による武装闘争で多用され、爆発物取締罰則の適用が検討されたが、裁判所によって「同法の規制対象となる『爆発物』とは、その爆発作用そのものによって公共の安全を攪乱し、または、人の身体や財産を傷害・損壊するに足る破壊力を有するものであり、……(火焔瓶は)いわゆる爆発物に該当しない」として退けられた。これは同法の罰則(死刑、無期懲役などを含む。また、同行為の準備を知りながら通報しない場合も処罰対象となる)が非常に重大なものであったため、特に慎重な判断を要したからである。
その後、1971年11月19日、沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し、その中で左翼の過激派学生の投じた火炎瓶が松本楼を直撃し、2代目の建物を焼失させるなど、1970年代の学生運動などでよく使われたが、当時の法律では火炎瓶自体については規制することができなかった。そのため、火炎瓶を「ガラスびんその他の容器にガソリン、灯油その他引火しやすい物質を入れ、その物質が流出し、又は飛散した場合にこれを燃焼させるための発火装置又は点火装置を施した物で、人の生命、身体又は財産に害を加えるのに使用されるもの」と定義して規制する「火炎びんの使用等の処罰に関する法律」を制定し、1972年5月14日施行した。
比較的作成が容易で、さらに昨今ではインターネットなどで簡単に作り方を調べることができるようになり、未成年が興味本位で作成し、悪戯や暴力団抗争に使用するなどの事件も起きている[4]。
注釈
関連項目
外部リンク
- 火炎びんの使用等の処罰に関する法律(法令データ提供システム)
- 1953年11日13日最高裁判所第2小法廷判決