皇極天皇

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皇極天皇(こうぎょくてんのう、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日661年8月24日)は、日本の第35代天皇。在位は、皇極天皇元年1月15日642年2月19日) - 4年6月14日645年7月12日)。

重祚して第37代 斉明天皇(さいめいてんのう、齊明天皇。在位:斉明天皇元年1月3日655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日))となる。

推古天皇から一代おいて即位した女帝である。

諱・諡号

寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)、または宝皇女。この諱の表記は一般化しているが、後世の尊称ともされる。

和風諡号天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。

略歴

テンプレート:節stub 敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王の第一王女。母は吉備姫王

はじめ高向王(用明天皇の孫、父は不詳)と結婚して、漢皇子を産んだ。尚、この2人の詳細は不明。

後に舒明天皇2年1月12日(630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。

舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、 舒明天皇が崩御する。皇后は48歳だった。

皇極天皇としての即位

舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇元年(642年)1月15日、 皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行なった。在位中は、蘇我蝦夷大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。

皇極天皇元年1月29日(642年3月5日)には阿曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。同年4月8日(5月12日)には追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日した。同年7月25日(8月25日)、蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させたが、微雨のみで効果がなかったため29日にやめるが、8月1日(8月31日)、天皇が天に祈ると雷が鳴って大雨が降る。雨は五日間続いたと伝わる。同年9月3日(10月1日)、百済大寺の建立と船舶の建造を命じる。9月19日に宮室を造ることを命じる。同年12月21日(643年1月16日)、小墾田宮遷幸

皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・50歳)には、更に飛鳥板蓋宮に遷幸。11月1日(12月16日)、蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、11月11日に王は自害。

乙巳の変

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った。日本史上初の譲位とされる。

新天皇の孝徳天皇により、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号を奉られた。

孝徳天皇の時代

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  • 白雉2年3月15日(651年4月10日) - 十師たちを呼んで設斎。
  • 白雉4年(653年)、皇祖母尊は中大兄皇子と共に、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷幸。
  • 白雉5年10月1日(654年11月15日)、中大兄皇子と共に、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく難波長柄豊碕宮に行幸。10月10日、孝徳天皇が崩御。

重祚

孝徳天皇の崩御後、斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に就いた(史上初の重祚)。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。『日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。

斉明天皇元年には、高句麗百済[1]新羅[2]が使を遣わして朝貢してきた。また、蝦夷隼人も衆を率いて内属し、朝献した。

有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。

対外政策

対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、にも使者を遣わした。

蝦夷平定

北方の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送り蝦夷地を平定した。さらに当時北海道の北海岸や樺太に存在した粛慎[3]まで出兵し勝利したと伝える。

朝鮮半島への軍事介入

在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、倭国軍は朝鮮半島南部に上陸し、白村江の戦いを戦ったが、新羅の連合軍に敗北した。

直木孝次郎は皇極天皇のこれらの動向について、記紀における神功皇后三韓征伐説話のモデルになったのではないかと推測している[4]テンプレート:Main

年譜

※前節に記載されたものを除く。

斉明天皇元年

  • 斉明天皇元年(655年
    • 7月11日 - 北の蝦夷99人・東の蝦夷95人・百済の調使150人を饗応。
    • 8月1日 - 河辺麻呂が大唐から帰国。
    • 10月13日 - 小墾田に宮を造ろうとしたが、中止。
    • 冬 - 飛鳥板蓋宮が火災に遭い、飛鳥川原宮に遷幸。

斉明天皇2年

  • 斉明天皇2年(656年・63歳)
    • 8月8日 - 高句麗が大使に達沙、副使に伊利之、総計81人を遣わし、調を進める。
    • 9月 - 高句麗へ、大使に膳葉積、副使に坂合部磐鍬以下の使を遣わす。
    • 飛鳥の岡本に宮を造り始める。途中、高句麗、百済、新羅が使を遣わして調を進めたため、紺の幕を張って饗応。やがて宮室が建ったので、そこに遷幸し後飛鳥岡本宮と名付けるが、岡本宮が火災に遭う。
      香山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで垣を造る。
      吉野宮を作る。
      西海使の佐伯栲縄と吉士国勝らが百済より還って、鸚鵡を献上する。

斉明天皇3年

  • 斉明天皇3年(657年・64歳)
    • 7月3日 - 覩貨邏国(とからのくに)の男2人・女4人が筑紫に漂着したので、召す。
    • 7月15日 - 須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行なった。暮に覩貨邏人を饗応。
    • 9月 - 有間皇子が狂を装い、牟婁温湯に行き、帰って景勝を賞賛した。天皇はこれを聞いて悦び、行って観たいと思う。
    • この年 - 使を新羅に遣って、僧の智達・間人御厩・依網稚子らを新羅の使に付けて大唐に送ってほしいと告げる。新羅が受け入れなかったので、智達らは帰国。

斉明天皇4年

  • 斉明天皇4年(658年・65歳)
    • 1月13日 - 左大臣巨勢徳多が死去。
    • 4月 - 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷渟代津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応。
    • 5月 - 皇孫の建王が8歳で薨去。天皇は甚だ哀しんだ。
    • 7月4日 - 蝦夷二百余が朝献する。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与える。
    • 7月 - 僧の智通と智達が勅を受けて新羅の船に乗って大唐国に行き、玄奘法師から無性衆生義(法相宗)を受ける。
    • 10月15日 - 紀温湯に行く。
    • 11月5日 - 蘇我赤兄が有間皇子の謀反を通報。
    • 11月11日 - 有間皇子を絞首刑に、塩屋鯯肴と新田部米麻呂を斬刑にする。
    • この年 - 沙門の智喩が指南車を作る。

斉明天皇5年

  • 斉明天皇5年(659年・66歳)
    • 1月3日 - 紀温湯から帰る。
    • 3月1日 - 吉野に行く。
    • 3月3日 - 近江の平浦に行幸。
    • 3月10日 - 吐火羅人が妻の舎衛婦人と共に来る。
    • 3月17日 - 甘檮丘の東の川辺に須弥山を造り陸奥の蝦夷を饗応。
    • 3月 - 阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
    • 7月3日 - 坂合部石布と津守吉祥を唐国に遣わす。
    • 7月15日 - 群臣に詔して、京の内の寺に盂蘭盆経を説かせ、七世の父母に報いさせる。

斉明天皇6年

  • 斉明天皇6年(660年・67歳)
    • 1月1日 - 高句麗の使者、賀取文ら百人余が筑紫に到着。
    • 3月 - 阿倍比羅夫に粛慎を討たせる。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。
    • 5月8日 - 賀取文らが難波館に到着。
    • 5月 - 勅して百の高座と百の納袈裟を作り、仁王般若会を行う。皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻を作る。阿倍比羅夫が夷50人余りを献じる。石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎47人を饗応。国中の百姓が、訳もなく武器を持って道を往来。
    • 7月16日 - 賀取文らが帰る。覩貨邏人の乾豆波斯達阿が帰国のための送使を求め、妻を留めて数十人と西海の路に入る。
    • 7月 - 百済が唐と新羅により滅亡。
    • 9月5日 - 百済の建率の某と沙弥の覚従らが来日。鬼室福信が百済復興のために戦っていることを伝える。
    • 10月 - 鬼室福信が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、援兵を求め、皇子の扶余豊璋の帰国を願う。天皇は百済を助けるための出兵を命じ、また、礼を尽くして豊璋を帰国させるよう命じる。
    • 12月24日 - 軍器の準備のため、難波宮へ行幸。

斉明天皇7年

  • 斉明天皇7年(661年・68歳)
    • 1月6日 - 西に向かって出航。
    • 1月8日 - 大伯海に至る。大田皇女が皇女を産み、大伯皇女と名付ける。
    • 1月14日 - 伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
    • 3月25日 - 娜大津に着き、磐瀬行宮に居す。
    • 4月 - 百済の福信が、使を遣わして王子の糺解の帰国を求める。
    • 5月9日 - 朝倉橘広庭宮に遷幸。
    • 5月23日 - 耽羅が初めて王子の阿波伎らを遣わして貢献。
    • 7月24日 - 朝倉宮で崩御。
    • 8月1日 - 皇太子が天皇の喪に付き添い、磐瀬宮に到着。
    • 10月7日 - 天皇の喪が帰りの海路に出航。
    • 10月23日 - 天皇の喪が難波津に着く。
    • 11月7日 - 飛鳥の川原でした。9日まで発哀。

在位中の重臣一覧

年月日(西暦) 左大臣 右大臣 内臣
斉明天皇元年1月3日
(655年2月14日)
巨勢徳多(留任) 中臣鎌足(留任)
斉明天皇4年1月13日
(658年2月20日)
中臣鎌足

飛鳥時代(27代から37代)

テンプレート:皇室飛鳥時代

陵・霊廟

(みささぎ)は、奈良県高市郡高取町大字車木にある越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。考古学名は車木ケンノウ古墳(円墳、直径約45メートル)。

ただし、研究者の間では明日香村牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)が陵墓として有力視されており[5]、そのほか同村の岩屋山古墳橿原市の小谷古墳も候補としてあげられている。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

研究

皇后冊立

テンプレート:See also 河内祥輔は、舒明天皇には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女も妃にいたにも関わらず、敏達天皇の皇曾孫に過ぎず且つ一度婚姻経験のある皇極天皇が皇后になったのを疑問として、天智天皇の生母として後世に「皇后」としての地位を付与されたとする説を採る[6]

また、仮説としながらも寶女王の天皇在位を斉明天皇としてのみとして、舒明天皇崩御後から孝徳天皇即位までは内乱による天皇空位期であり、上宮王家滅亡から古人大兄皇子殺害までの「事件」は内乱による「戦い」であった可能性を指摘している[6]

乙巳の変と皇極王権否定説

乙巳の変はこれまでの大王(天皇)の終身性を否定し、皇極天皇による譲位を引き起こした。佐藤長門は乙巳の変は蘇我氏のみならず、蘇我氏にそれだけの権力を与えてきた皇極天皇の王権そのものに対する異議申し立てであり、実質上の王殺しとする[7]。ただし、首謀者の中大兄皇子は皇極の実子であり実際には大臣の蘇我氏を討つことで異議申し立てを行い、皇極は殺害される代わりに強制的に退位を選ばせざるを得ない状況に追い込まれた。ところが、次代の孝徳天皇(軽皇子)の皇太子となった中大兄は最終的には天皇と決別してしまった。孝徳天皇の王権を否定したことで後継者としての正統性を喪失した中大兄皇子は、自己の皇位継承者としての正統性を確保する必要に迫られて乙巳の変において否定した筈の皇極天皇の重祚(斉明天皇)に踏み切った。

だが、排除した筈の大王(天皇)の復帰には内外から激しい反発を受け、重祚した天皇による失政もあり、重祚を進めた中大兄の威信も傷つけられた。斉明天皇の崩御後に群臣の支持を得られなかった中大兄は百済救援を優先させるとともに群臣の信頼を回復させるための時間が必要であったため、自身の即位を遅らせたとする[7]

脚注

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基礎データ

  • 代数:第35代/第37代
  • 御名:宝 天豊財重日足姫尊(あめのとよたからいかしひたらしひめのみこと)
  • 父:茅渟王(ちぬのおおきみ)
  • 母:吉備姫王(きびひめのおおきみ)
  • 夫:高向王舒明天皇
  • 皇居:飛鳥板蓋宮/飛鳥板蓋宮、飛鳥川原宮、後飛鳥岡本宮
  • 在位:4年/7年
  • 崩御:661年(宝算68)
  • 陵:越智崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)

在位年と西暦との対照表

外部リンク

テンプレート:歴代天皇一覧 テンプレート:歴代皇后一覧

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  1. 百済の大使は余宜受、副使は調信仁で、総員100余人であった。
  2. 新羅は弥武を人質にし、別に12人を才伎人にしたが、弥武は病死。
  3. オホーツク文化人と推測され、現在樺太中部以北に住むニヴフがその末裔といわれる。粛慎は本来中国の文献上で満州東部に住むツングース系民族(樺太中部以北のはウィルタ)を指し、日本書紀に記された粛慎と異なるとみられている。
  4. 直木孝次郎『神話と歴史』(2006年吉川弘文館)
  5. テンプレート:Cite news
  6. 6.0 6.1 『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年)P54-60
  7. 7.0 7.1 佐藤長門「七世紀における倭王権の展開過程」(初出:『国学院大学研究紀要』39号、2001年/所収:佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6)