戸田橋

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東京側から見た戸田橋(2004年12月)

戸田橋(とだばし)は、埼玉県戸田市東京都板橋区の間で荒川にかかるで、国道17号中山道)を通す。新幹線・埼京線荒川橋梁が東に並んでかかる。江戸時代に戸田の渡しがあり、1875年(明治8年)に最初の戸田橋がかかった。1978年竣工の橋は4代目で、長さ519m、幅21mある。

歴史

戸田の渡し

テンプレート:See also 戸田の渡しの存在は、文献では天正年間にさかのぼる。江戸時代には中山道の要所として渡船場がおかれた。この地点には1772年(安永元年)に戸田河岸場がおかれて物資の集散点としても機能した。渡し場は戸田橋の完成とともに廃止された。

1875年の橋

1875年(明治8年)5月26日に、木製の戸田橋が竣工した。橋長136m、幅員4.2m[1]。通行は有料で渡船時代の通行料よりも高額であった。1885年の大水で破損した。

1912年の橋

1912年(大正元年)10月に木製の橋ではあるが、その橋面に土をならした土橋に架け替えられた。橋長129m、幅員5m[2]1923年関東大震災1924年の大水で破損した。

1932年の橋

1932年(昭和7年)12月24日に二代目の橋の約100m上流側の位置に三代目の橋が鋼製のカンチレバートラス橋として開通した。橋長528.6m、幅員11m[3]。開通当時はその斬新でモダンなデザインから観光地にもなった[4]。交通量が増大し時代にそぐわなくなったことにより1978年に役目を終え、この橋の北側の親柱が戸田市の戸田橋親水公園に、南側の親柱が板橋区の小豆沢公園に移された。

1978年の橋

1978年(昭和53年)8月13日に三代目の橋の約30m上流側の位置に四代目の橋が鋼連続箱桁橋として竣工した。橋長519m、幅員21m[3]。これが現在の戸田橋である。歩道は上り車線側下り車線側の両側に設けられている。南側の荒川堤防で舟渡高架橋に接続し、堤の下の地平面に緩やかに降りる。

橋の周辺

1979年(昭和54年)に荒川で実施された捕獲調査では、戸田橋で魚類はまったくとれなかった。1985年(昭和60年)にはゲンゴロウブナを優占種とし、コイハクレンも捕獲された[5]

河川敷は右岸(東京都側)に広くとられている。橋のそばから上流側は戸田橋緑地で、サッカー場、野球場があり、その周りに疎林と草原がある。2005年現在、林に隠れる形でテント生活をする人々がいる。下流側の河川敷にはゴルフ場がある。左岸(戸田側)では、上流側の堤防をはさんで戸田公園が設けられている。戸田公園の北に、戸田漕艇場戸田競艇場がある。堤防を越えた両岸には工場が多い。

毎年夏には、戸田側の河川敷で戸田橋花火大会が、板橋側ではいたばし花火大会が同日に行われる。この時は、国道である橋上はもちろん、橋の前後、周辺ともに人や車で混雑する。なお、いたばし花火大会と戸田橋花火大会は、事実上板橋区と戸田市の共催により実施されているが、その歴史的背景は荒川沿いの板橋区と旧戸田町(現戸田市)とのあいだの都県境が非常に複雑怪奇であったため、現在の都県境のように荒川の流域に沿って非常にわかりやすくシンプルな境界線へ変更した事を記念して、実施され続けている。

隣の橋

(上流) - 幸魂大橋 - 笹目橋 - 戸田橋 - 東北新幹線橋梁 - 東北本線橋梁 - (下流)

脚注

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参考文献

  • 埼玉県『荒川 自然』(荒川総合調査報告書1)、1987年。

関連項目

外部リンク

テンプレート:国道17号 テンプレート:荒川の橋

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  1. 戸田橋1875-5-26 - 土木学会附属土木図書館
  2. 戸田橋1912-10 - 土木学会附属土木図書館
  3. 3.0 3.1 戸田橋1932-12-24 - 土木学会附属土木図書館
  4. 第19回特別展 戸田河岸と荒川の舟運 47頁 戸田市立郷土博物館発行 2003年10月11日
  5. 『荒川 自然』547頁。ゲンゴロウブナ13、コイ2、ハクレン1。