友鶴事件
テンプレート:出典の明記 友鶴事件(ともづるじけん)とは、1934年(昭和9年)3月12日に水雷戦隊の演習中に佐世保港外において発生した大日本帝國海軍(日本海軍)の千鳥型水雷艇3番艦「友鶴」の転覆事故、及びそれに続く一連の海難事故のことである。翌年に発生した第四艦隊事件とともに日本海軍を震撼させ、その艦艇設計に大きな影響を与えた。
事件の概要
水雷艇は、計算上90-110度程度の傾斜までは転覆せず復原力を有する設計とされていた。演習当日は折からの荒天で波浪も高かったが、友鶴は40度程度の傾斜で転覆し、死者72名、行方不明者28名を出す大惨事を引き起こした。生存者はわずか13名である。事故後、これを教訓に艦の復原性について再検討が加えられることになった。
艦を設計した艦政本部の責任者であった藤本喜久雄少将(当時)は、この事故の責任を取る形で謹慎処分となり、翌年没している。
事件の背景
日本海軍は1930年(昭和5年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約により、主力艦(戦艦、航空母艦)だけでなく巡洋艦や駆逐艦といった補助艦艇の建造にも制限を受けることとなった。そこで、補助艦艇の制約を補うため、条約の制限外とされた基準排水量600トン以下の船体に(駆逐艦以上の)重武装を施した小型駆逐艦ともいうべき水雷艇を建造することとした。これが、「友鶴」の属する千鳥型水雷艇である。
事故の原因と対策
米内光政佐世保鎮守府司令長官(当時)の命により友鶴事故について徹底的に調査究明され、計算上は艦の傾斜に対する充分な復原性を保持していたはずの「友鶴」の船体が、実際には過大な武装や工作技術の未熟による重量超過により重心の上昇したトップヘビーな状態となって復原性が不足していたのが転覆の原因とされた。
藤本喜久雄少将は千鳥型水雷艇に限らずに用兵側の要求に徒に追従して小型の船体に重武装を載せた艦艇を多数建造していた。このため、事故後、吹雪型駆逐艦や初春型駆逐艦などにおいても、武装の削減、上部構造物の高さの縮小や撤去、舷側へのバルジの装着といった復原性向上及び重心低下対策が実施されている。当事件以降、戦艦・空母で60度、巡洋艦で90度、駆逐艦・水雷艇で90 - 110度以上の復原力を持つことが要求された。
調査結果を基とした艦艇改修により艦艇のトップヘビーによる転覆事故は起こらなくなったが、近年の研究では、復原性の不足がすべてではなく、追波(おいなみ)に対して保持すべき進路を誤った艇長の操艦ミスや、当時の復原性理論自体の限界も指摘されている。 当時の復原性理論は静的復原性主体であり、船の上部にかかる風圧や、旋回遠心力の影響で急速に傾斜する動きについての動的復原性解析が未熟であった。 船の後方から追波を受けている状況で急旋回すれば、旋回外側に船を倒す遠心力に加え、波力による船首の上下動をなすピッチングモーメントが急速にローリングモーメントに転化する上に追い風の風圧も旋回外側に船を倒す横風と変わることになる。そのため、静的復原性計算の復原力(横断面重心が浮心より低ければ浮力によって復原力=傾斜をゼロに戻す力が発生する)を上回る傾斜モーメントが働き、転覆に至ったと見られている。 理論の解明のないまま経験的に追波での急旋回は危険とされていたことからすると操艦ミスともいえるが、机上計算を過信した当時の造船学の未熟ともいえるかもしれない。
事件を題材とした作品
- 『顛覆』(「空白の戦記」収録)吉村昭著