L・M・モンゴメリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年8月4日 (月) 12:54時点におけるBenichan (トーク)による版 (生涯)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 作家

ファイル:Lucy Maud Montgomery Se.JPG
作者ルーシー・M・モンゴメリーの墓(プリンスエドワード島

ルーシー・モード・モンゴメリLucy Maud Montgomery1874年11月30日 - 1942年4月24日)はカナダの小説家である。『赤毛のアン』の作者であり、本作を第一作とする連作シリーズ「アン・ブックス」で良く知られている。彼女の小説は英語で記されている。

生涯

ルーシー・モード・モンゴメリは1874年11月30日[1]に、カナダ東部プリンス・エドワード島のクリフトン(現在のニューロンドン)で生まれた。スコットランド系とイギリス系の祖先を持つ[2]。父方の祖父は、上院議員[2]

モンゴメリが生後21ヶ月(一歳9ヶ月)のとき、母クララ・ウールナー・マクニール・モンゴメリが結核で亡くなると、父ヒュー・ジョン・モンゴメリはカナダ西部へ移住したため、モンゴメリはキャベンディッシュの農場に暮らす母方の祖父母、アレクサンダー・マーキス・マクニールと、ルーシー・ウールナー・マクニールに厳しく育てられた。マクニール家は文才に恵まれた一族で、モンゴメリは祖父の詩の朗読をはじめ、叔母たちから多くの物語や思い出話を聞いて育った[2]。しかし、一部の叔母たちを除いて、保守的な祖父、口うるさく支配的な祖母、モンゴメリの欠点をあげつらう親族のことは嫌っていた[2][3]

1890年(15歳のころ)には父と継母と暮らすため、サスカチュワン州プリンス・アルバートに送られたが、1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に戻っている。11歳しか年の違わない継母からは子守りと家事手伝いを命じられ、勉強をしたいという夢を打ち砕かれるが、この時期に書いた詩やエッセイが新聞に掲載され、作家を目指すきっかけとなった[2]

1893年。キャベンディッシュでの中等教育を終えたモンゴメリは、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジへ進学した。2年分の科目を1年で終え、1894年に一級教員の資格を取得した。1895年から1896年にかけてノバスコシア州の州都ハリファックスダルハウジー大学で聴講生として文学を学んだ。

島にあるさまざまな学校で教師を務めたあと、1898年に祖父を亡くし、未亡人となった祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻った。祖父は地元の郵便局長も務めていたため、死後その仕事をモンゴメリが引き継いだ[2]1901年1902年の短期間、ハリファックスで新聞社のデイリー・エコー社に記者兼雑用係として[3]勤め、1902年に祖母の世話をするため、再びキャベンディッシュに戻った。ちょうどこの頃、すでに雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編を書く気になったという。気難しい祖母との辛い暮らしの中、相談相手となってくれた[3]長老派教会牧師ユーアン・マクドナルドと1906年に婚約。1908年最初の長編小説『赤毛のアン』を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収める。ユーアン・マクドナルドとは祖母が亡くなった直後、モンゴメリ36歳の1911年7月11日に結婚し、英国・スコットランドへの新婚旅行の後、オンタリオ州リースクデール(現ダラム地域アクスブリッジ )に移り住んだ。

モンゴメリは続く11冊の本をリースクデールの牧師館で書いた[4]1911年に最も親しかった従妹のフレッドを病気で失くす[3]。この喪失感は生涯続いた[2]1926年に一家はノーヴァル(現在のオンタリオ州ハルトンヒルズ)に移住した[5]

1935年フランス芸術院会員となり、また、大英帝国勲位も受けた。同年一家はトロントへ移った。モンゴメリは1942年トロントで亡くなった。死因は「冠状動脈血栓症」とされてきたが[6]、『赤毛のアン』原作誕生百周年の年に、孫娘のケイト・マクドナルド・バトラーにより、うつ病による自殺と公表された[7]。グリーン・ゲイブルズおよび教会での葬儀のあと、キャベンディッシュ墓地に葬られた。

モンゴメリのコレクションはガルフ大学に所蔵されているほか、プリンスエドワードアイランド大学にあるthe L.M. Montgomery Instituteがモンゴメリ関連の研究や会議をコーディネートしている。モリー・ギレンは、モンゴメリとマクミランが交わした40以上の手紙を元にモンゴメリの初めての伝記「The Wheel of Things: A Biography of L.M. Montgomery (1975) 」(邦題『運命の紡ぎ車)を著した。1980年代初め、モンゴメリの全日記がマリー・ルビオとエリザベス・ウォーターストンの編集でオックスフォード大学印刷局から刊行された。1988年から1995年にかけて、リー・ウィルムシュルストがモンゴメリの短編を収集して出版した。

家族

ユーアンは結婚後8年目に学生時代に患ったうつ病が再発、生涯快癒する事はなかった。モンゴメリは世間に夫の病名を隠して看護を続けたが、晩年は家庭内外の問題で心労が重なり、モンゴメリ自身も神経を病んだという[8]。二人の間には3人の男子があった。チェスター・キャメロン・マクドナルド(1912-1964)、(ユーアン)スチュアート・マクドナルド(1915-1982)、そして1914年に死産したヒュー・アレクサンダーである。

筆名等について

モンゴメリーは筆名等に神経質であったことが知られる。「赤毛のアン・ライセンス局」[9]に記載されている日本語の表記は「ルーシー・モード・モンゴメリ」および「L. M. モンゴメリ」である。結婚後は姓が変わりマクドナルド夫人となるが、筆名は当然、変わることなく、L. M. Montgomery を用いる。他方、手紙では L. M. Montgomery Macdonald と署名している。名前にこだわりのあるモンゴメリは作品をルーシー・モード・モンゴメリの名で出版する事を嫌い、L. M. モンゴメリにしたいと出版社に希望した[10]。友人たちはモード(Maud)と呼んだが[11]、父は「モーディー」と愛称で呼んだ[12]

著作

1908年の『赤毛のアン』の成功の後、1909年の第2作『アンの青春』など、『赤毛のアン』シリーズ(アン・ブックス)を含め生涯に20冊の小説と短編集を書いた。特に『赤毛のアン』は何度も映画化され、40ヶ国語に翻訳されるなどの成功を収めた。

『赤毛のアン』は日本では、1952年に村岡花子により翻訳・紹介され、主に少女たちの間で熱狂的に愛読された。のちに、中学の国語の教科書に収録され、1979年世界名作劇場シリーズテレビアニメ赤毛のアン』として放映された。モンゴメリの生地、プリンス・エドワード島を訪れる日本人観光客は多い。

なお、少女期から『赤毛のアン』を愛読していた作家の松本侑子は、1990年代に原書で読み直したところ、中世から19世紀にかけてのイギリス文学のパロディが、大量に詰め込まれていることを発見し、1993年に詳細な注釈つきの『赤毛のアン』の改訳版を刊行した。

参考文献

  • Mary Rubio, Elizabeth Waterston, Selected Journals of L.M. Montgomery Volume V: 1935-1942, Oxford University Press, 2005, ISBN 978-0195422153
  • L.M. Montgomery 『モンゴメリ日記 1』 桂宥子訳 立風書房 1997年 ISBN 9784651127071
  • 『モンゴメリ書簡集〈1〉G.B.マクミランへの手紙』 宮武潤三、宮武順子訳 篠崎書林 1992年 ISBN 9784784104963
  • 『モンゴメリ写真詩集』 宮武淳三・宮武順子共訳 篠崎書林 1989年 ISBN 978-4784104796
  • モリー・ギレン『運命の紡ぎ車』宮武淳三・宮武順子共訳 篠崎書林 1979年
  • 桂宥子著『L. M. モンゴメリ 現代英米児童文学評伝叢書2』KTC中央出版 2003年
  • 小倉千加子「赤毛のアン」の秘密』岩波書店 2014年5月[13]

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister テンプレート:Wikisource author

外部リンク

テンプレート:Normdatenテンプレート:Link GA
  1. モンゴメリはウィンストン・チャーチルと同じ日生まれである。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 アルプスの峰をめざして 一章-四章 : L・M・モンゴメリー自叙伝須川美知子, 横浜創英短期大学紀要 3, 55-83, 2002-03-31
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 モンゴメリの日記(八) - 友の死…『日記抄』一九一九年ニ月七日をもとに 竹内 素子/伊澤 祐子/藤掛 由実子, 仙台電波工業高等専門学校/宮城学院女子大学/東北大学非常勤講師
  4. のちにこの牧師館は教会によって売却され、モンゴメリを記念する博物館、「Lucy Maud Montgomery Leaskdale Manse Museum」になっている。
  5. ハルトンヒルズには、モンゴメリを記念する公園、「Lucy Maud Montgomery Memorial Garden」がハイウェイ沿いに建設されている。
  6. Selected Journals of L.M. Montgomery Volume V: 1935-1942 P. 399
  7. 亡くなった当日、誰かによって出版社に“The Blythes Are Quoted”という15の短編小説と41篇の詩、12場の炉辺の会話からなる原稿が届けられ、日本では『アンの想い出の日々』として出版された(「『アンの想い出の日々』ーー翻訳家 村岡美枝さんに聞く」『村岡花子と赤毛のアンの世界』河出書房新社
  8. この辺りの事情は、最近刊行を終えた『モンゴメリ日記』全五巻(The Selected Journals of L. M. Montgomery: Oxford Univ Press)に詳しい。
  9. 赤毛のアン・ライセンス局
  10. 『モンゴメリ書簡集〈1〉G.B.マクミランへの手紙』P. 45
  11. 『モンゴメリ書簡集〈1〉G.B.マクミランへの手紙』P. 172
  12. 『モンゴメリ日記 1』P. 102
  13. 『「赤毛のアン」の秘密』 小倉千加子著読売新聞書評、2014年07月03日