中川清秀
中川 清秀(なかがわ きよひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
幼名虎之助。通称瀬兵衛。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系摂津源氏の流れを汲む多田源氏(あるいは河内源氏傍系石川源氏)の後裔と称した。父は中川重清(しげきよ)、母は中川清村(きよむら)の娘[1]。子に秀政、秀成、池田輝政先室(池田利隆母)・糸姫。妹は古田重然(織部)室。キリシタン大名である高山右近は従兄弟にあたる[1][2]。
経歴
天文11年(1542年)、摂津国福井村中河原(現:大阪府茨木市)に生まれた。はじめ摂津国人であった池田勝正に仕え、織田信長が上洛してくるとそれに従ったが、後に主家の池田氏で内紛がおこり、勝正が追放され池田知正が当主となると一時信長と敵対する。元亀3年(1572年)、同じく知正に仕えていた荒木村重と共同して織田方の和田惟政を討ち取り(白井河原の戦い)、戦後はこの戦いで滅んだ茨木氏の居城であった茨木城の城主となった[3]。
摂津で有力であった和田氏や茨木氏、伊丹氏、池田氏が相次いで衰退・没落すると村重や高山右近と共に摂津にて独立勢力となる。後に信長が村重を摂津の国主に据えると清秀もそれにしたがった。しかし天正6年(1578年)、村重が信長に対して反旗を翻すと(有岡城の戦い)、共に信長に敵対したが、織田軍が大挙して攻めてくると右近と共に降参して家臣となり、逆に村重を攻める側に回った。その後丹羽長秀や池田恒興旗下で転戦する。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死した後は右近と行動を共にして羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。翌天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、大岩山砦を右近、三好秀次らと守っている時、柴田勝家軍の勇将・佐久間盛政の猛攻に遭って奮戦したものの戦死した。享年42。墓所は大阪府茨木市の梅林寺、滋賀県長浜市大岩山砦跡。
家督は長男の秀政が相続、次男の秀成は後に豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続した。
- Nakagawa3.jpg
中河原橋付近にある中川清秀由緒地の石碑
- Kiyohide.jpg
賤ヶ岳の戦いで奮戦する中川清秀
- Grave of Nakagawa Kiyohide.jpg
大岩山にある中川清秀の墓
逸話
山崎の戦いの後、陣中見回りを駕籠で行った秀吉は、清秀の陣で「瀬兵衛、骨折り」と言ったが、清秀は「猿め、はや天下を取った気でおるわ」と大声で言いかえし、秀吉は聞こえぬふりをして通り過ぎた、という逸話がある。また、村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをおこなったのは清秀の家臣とされる。これが事実とすれば、清秀は謀反の原因を作った上に、村重の恭順の意思を説得して翻らせ、次いで寝返ったことになり、向背めまぐるしい戦国時代としてもかなり特異な例である。
秀吉との内誓紙
『中川氏年譜(付録)』によると天正8年(1580年)の内誓紙がある。 テンプレート:Quotation これにより秀吉と清秀は兄弟の契りを結んだことになり、両者の親密さをうかがわせる。
小説・漫画
参考文献
- 『わがまち茨木(城郭編)』茨木市教育委員会、1987年3月。