間部詮房
テンプレート:統合文字 テンプレート:基礎情報 武士 間部 詮房(まなべ あきふさ)は、江戸時代中期の大名。相模厚木藩主、上野高崎藩主、越後村上藩間部氏初代藩主。側用人、老中格。
生涯
寛文6年5月16日(1666年6月18日)、甲府藩主・徳川綱豊(後の6代将軍・徳川家宣)の家臣・西田清貞の子として生まれる。はじめは猿楽師・喜多七太夫の弟子であったが、貞享元年(1684年)に綱豊の用人になり、甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに詮房の名が見られる。藤原北家山蔭流間鍋氏であるが、綱豊の命によって間部氏となる。
宝永元年(1704年)、綱豊の江戸城西の丸城入に伴い、甲府徳川家家臣団は幕臣に編入され、詮房は従五位下・越前守に叙任し、側衆になり1500石加増された。その後も累次加増され、宝永3年(1706年)には、相模国内で1万石の大名となった。のちに加増を重ね高崎5万石を得た。日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない。詮房は、側衆としての格が上がり、若年寄に次ぐ地位になり、次いで序列上、老中の次席を命じられた。
詮房は、家宣・白石とのトロイカ体制で、門閥の譜代大名や将軍に対して強い影響力を有する大奥などの勢力をさばき、正徳の治を断行した。しかし、詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の徳川家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革がなかなか進まなかったのが実情である。
そのため、家継が幼少のまま病死し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚した。ただし、大名としての地位は剥奪されることはなく、領地を関東枢要の地・高崎から、遠方の村上に左遷されたにとどまり、形式の上では5万石の大名であり続けた。
享保5年7月16日(1720年8月19日)、暑気あたりで村上の地にて死去した。享年55(満54歳没)。跡を弟で養嗣子の詮言が継いだ。
間部家は、上野国高崎藩5万石から越後国村上藩5万石を経て、越前国鯖江藩5万石で明治維新を迎え、華族令によって子爵を授けられた。
人物・逸話
- 真面目で信義に篤い人物だったとされ、他の幕臣は交代で勤務にあたったが、詮房は家宣に昼夜片時も離れず勤務したため、家宣も詮房のことは特に信頼していたという。
- 白石は「身の暇がなく」「きわめて生質の美なるところありて、おおかた古の君子の人にも恥じまじき」と詮房を評した。また、白石は家宣の死後に政治に対して消極的になることも多かったが、そのような白石を励まして能力を引き出すことに尽力したという。
- 家宣死後、大奥へ頻繁に出入りし月光院と密会を重ねていたとか、大奥で月光院と一緒にいるときの詮房のくつろいだ様子から、家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったなどという逸話がある。さらに月光院と詮房は桜田御殿時代から深い仲であったとか、また詮房の旧姓が間鍋であることと家継の幼名鍋松から、家継は詮房の子でないかという説がある。だが、これらはいずれも詮房を失脚させるための俗説に過ぎず、信憑性は低い。
官歴
※日付は旧暦
- 貞享元年(1684年) - 甲府藩(藩主徳川綱豊)小姓切米150俵10人扶持
- 貞享4年(1687年) - 同藩両番頭格
- 元禄元年(1688年) - 同藩奏者役格
- 元禄2年(1689年) - 同藩用人並
- 元禄12年(1699年) - 同藩用人1,500石
- 宝永元年(1704年)12月9日 - 従五位下・越前守。幕府書院番頭格西丸(将軍後継者徳川家宣)奥番頭
- 宝永2年(1705年)1月7日 - 西丸側衆3,000石
- 宝永3年(1706年)
- 1月9日 - 序列が若年寄の次座。相模国内1万石領主。
- 12月15日 - 序列が老中の次座。従四位下に昇叙。
- 宝永6年(1709年)
- 宝永7年(1710年)5月23日 - 上野国高崎5万石に転封。
- 享保元年(1716年)5月16日 - 側用人御役御免、雁間詰となる。
- 享保2年(1717年) - 越後国村上5万石に転封。
登場作品
テレビドラマ
- 大奥(関西テレビ、1968年、演:内田稔)
- 絵島生島(東京12チャンネル、1971年、演:佐藤慶)
- 大奥(関西テレビ、1983年、演:天知茂)
- 八代将軍吉宗(NHK大河ドラマ、1995年、演:石坂浩二)
映画
漫画
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