ソ連8月クーデター

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ソ連8月クーデター(ソれんはちがつクーデター)とは、新連邦条約締結を翌日に控えた1991年8月19日に、モスクワで発生したクーデターである。

概説

共和国の権限を拡大しようとした改革派のミハイル・ゴルバチョフに対し、ゲンナジー・ヤナーエフら守旧派が起こしたが、ボリス・エリツィンを中心とした市民の抵抗により失敗に終わり、逆にソ連崩壊を招いた。現在のロシア連邦成立に至った為、1917年ロシア帝国で起きた2月革命1917年3月12日)や10月革命(1917年11月7日)になぞらえて、ロシア8月革命と呼ぶこともある。別名「8・19クーデター」「8月19日の政変」。

背景

ゴルバチョフの3代前の書記長レオニード・ブレジネフの政策は1970年代後半以降徐々に破綻をきたし、中ソ関係や米ソ関係のさらなる悪化を招いた。特に米ソ関係は1979年アフガニスタンへの軍事介入で決定的に悪化し、ソ連崩壊の遠因となる。

ファイル:Reagan and Gorbachev signing.jpg
ゴルバチョフ(左)とアメリカのロナルド・レーガン大統領

こうした状況の中で1982年にブレジネフが死去。その後任となったユーリ・アンドロポフは病弱であったため、1年半後の1984年に死去。さらにコンスタンティン・チェルネンコが書記長となったがチェルネンコも病弱であり、書記長就任の翌1985年に死去。こうした中で54歳だったゴルバチョフが書記長となった。ペレストロイカグラスノスチは成功したものの、経済政策は守旧派との対立で次第に行き詰まっていった。

こうした中でボリス・エリツィンが台頭してくる。しかし、エリツィンはゴルバチョフが守旧派と妥協していくことに反発したため1987年にモスクワ市党第1書記を解任され、さらに1988年2月には政治局員候補から外される。守旧派と改革派の対立の土台は1988年のゴルバチョフによる過去の政治批判によりできあがっていた。1988年10月にはアンドレイ・グロムイコ最高幹部会議長が辞任し、ゴルバチョフが兼任する。

翌年の1989年には改革派からはみ出した民主綱領派が結成され、エリツィンがリーダーとなった。これに刺激されるかのように1990年2月に守旧派が政策集団「ソユーズ」を結成する。7月の党大会でゴルバチョフが書記長に再選されるが、エリツィンがゴルバチョフの書記長続投に反発し離党。1991年1月にソ連軍がバルト三国に軍事介入し13人の死者が出た。ソ連軍のバルト三国軍事介入に反発するソ連国民がゴルバチョフの退陣を要求するようになり、国民の支持という点での政権基盤が崩れつつあった。

ゴルバチョフはエリツィンと4月に和睦し、ソ連邦の基本条約に調印した。しかし、ゴルバチョフ政権を支えていた3代前のブレジネフ元書記長の流れを汲む守旧派は、この動きに抵抗した。この頃、ソ連の国民世論はエリツィンら急進改革派支持に傾いていった。1990年4月にはエリツィンら急進改革派が結成した地域間代議員グループに所属するガブリール・ポポフがモスクワ市長に、1991年6月にはアナトリー・サプチャークレニングラード市長に当選した(ポポフ、サプチャークは後にブレジネフの流れを汲む保守派と一線を画し、後に共産党を離党する)。また同年6月20日ロシア大統領選では、保守派が擁立したニコライ・ルイシコフ前ソ連首相がエリツィンに惨敗したことも保守派を追い詰め、クーデターを引き起こすきっかけとなった。

1991年8月20日に各主権共和国は独立した共和国として共通の大統領、外交、軍事政策下に連合するという新連邦条約に署名する予定だった。守旧派は新連邦条約がいくつかの小さな共和国、特にエストニアラトビアリトアニアと言った国々の完全独立に向けた動きを促進するだろうという恐れから同条約に反対した。彼らは、新連邦条約は各主権共和国へ権力を過度に分散させすぎたものだと見なした。

経緯

クーデター前夜

1991年8月19日、ゴルバチョフ大統領と各主権共和国指導者が新連邦条約に調印する前日、「国家非常事態委員会」 (Государственный Комитет по Чрезвычайному Положению, ГКЧП、State Emergency Committee) を称するグループがモスクワでの権力奪取を試みた。ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領を始めとする守旧派グループによる体制維持が目的の反改革クーデターはウラジーミル・クリュチコフKGB議長が計画し、ゴルバチョフの別荘の暗号名をとって「あけぼの作戦」とよばれた。委員会の8人のメンバーはヤナーエフ副大統領、クリュチコフKGB議長、ボリス・プーゴ内相、ドミトリー・ヤゾフ国防相、ヴァレンチン・パヴロフ首相、オレグ・バクラーノフ国防会議第1副議長、ワシリー・スタロドゥプツェフソ連農民同盟リーダー、アレクサンドル・チジャコフ国営企業・産業施設連合会会長であった。また、同委員会の正式メンバーでは無かったが、アナトリー・ルキヤノフソ連最高会議議長は、同委員会と密接な関係にあり、謀議に関与していた。

8月19日

ファイル:Boris Yeltsin 19 August 1991-1.jpg
ベールイ・ドーム(ロシア共和国最高会議ビル)前で演説するエリツィン

前日の8月18日の午後5時頃ワレリー・ボルジン大統領府長官ら代表団がクリミア半島テンプレート:仮リンクの別荘で休暇中のゴルバチョフに面会を要求、ヤナーエフ副大統領への全権委譲と非常事態宣言の受入れ、大統領辞任を迫ったがゴルバチョフはいずれも拒否、別荘に軟禁された。

国家非常事態委員会は8月19日の午前6時半にタス通信を通じて「ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で執務不能となりヤナーエフ副大統領が大統領職務を引き継ぐ」という声明を発表する。反改革派が全権を掌握、モスクワ中心部に戦車が出動しモスクワ放送は占拠された。(当時、アナウンサーは背中に銃を突きつけられた状態で放送をしていたという。[1]

午前11時になるとエリツィンロシア共和国大統領が記者会見を行い「クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法」との声明を発表する。エリツィンはゴルバチョフ大統領が国民の前に姿を見せること、臨時人民代議員大会の招集などを要求、自ら戦車の上で旗を振りゼネラル・ストライキを呼掛け戦車兵を説得、市民はロシア共和国最高会議ビル(別名:ホワイトハウス)周辺にバリケードを構築した。また市民は銃を持ち火炎瓶を装備、クーデター派ソ連軍に対し臨戦態勢を整えた。クーデターに陸軍最精鋭部隊と空軍は参加しなかった。

海外の反応

このニュースは世界各国にも伝わった。リビアカダフィ大佐[2]イラクサダム・フセイン大統領[3][4]は国家非常事態委員会の支持を表明した。アメリカ合衆国ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は国家非常事態委員会を否定し、エリツィンとゴルバチョフらの改革派を支持した。イギリスジョン・メージャー首相とフランスフランソワ・ミッテラン大統領も同じだった。しかし日本海部俊樹首相は、ソ連内の情報ルートがなかったことによりクーデターの先行きを把握できなかったため、保守派が政権を奪取した場合を考慮して態度を明確にしなかった。

午後10時をすぎると戦車10台がエリツィンサイドに寝返る。1万人の市民がロシア最高会議ビル前に篭城した。KGBアルファ部隊は、保守派よりロシア最高会議ビル奪取命令を下されたがそれに従わなかった。北部ロシア炭鉱に於いても改革派を支持する労働者によるストライキが発生し、エストニアでは独立宣言が出された。レニングラードでは改革派のアナトリー・サプチャーク市長が市のコントロールを奪回した。

国家非常事態委員会の狼狽

翌8月20日、12時頃ロシア政府ビル前に市民10万人が集結し「エリツィン!、ロシア!、エリツィン!、ロシア!」のシュプレヒコールをあげた。労働者ストライキが全国で発生し、市民デモも多発。一部では流血事態が発生した。21日の午前0時になると戦車隊がロシア政府ビルへ前進、市民と衝突し火炎瓶を装甲車に投げつけるも、装甲車に飛び乗った市民を振り落とす等で3名が死亡する。午前4時頃、軍とKGBの150戦車隊の一部がバリケードの突破で小競合いとなる。ロシア側は発砲を許可し戦車2台を破壊、10数名の市民が死亡した。午前5時に国家非常事態委員会は戦車隊の引き上げを決定。交渉により軍は当面事態を静観すると確約する。午前11時頃、ロシア議会は国家非常事態委員会に対して夜10時までに放棄を求める最終通告を行う。この通告に動揺したせいかは定かではないが国家非常事態委員会の一部が辞任を表明、ヤナーエフ副大統領は飲酒の果てに泥酔して執務不能の状態にあった。午前11時40分、国家非常事態委員会の実質リーダーであるクリュチコフKGB議長がエリツィンにゴルバチョフとの話し合いを申し出る。ロシア議会はイワン・シラーエフ首相を代表に任命、ゴルバチョフ救出のためクリミアに派遣することを決定した。

クーデター失敗と共産党の失墜

午後1時53分、エリツィンはクーデターが未遂に終わったことを宣言した。午後2時になると国家非常事態委員会のメンバーがソ連国内から逃亡を始め(プーゴ内相は自殺)、エリツィンはメンバーの拘束指令を発する。午後4時20分にはヤゾフ国防相が全部隊のモスクワへの撤退命令をニュース放送で行う。午後4時55分にロシア代表団がクリミア半島に到着しゴルバチョフと面会、午後9時にはモスクワ放送が復活した。

8月22日の午前2時55分に攻撃を避けるための人質としてクリュチコフを帯同したゴルバチョフが搭乗したアエロフロートの特別機がモスクワのブヌコヴォ空港に到着した。クーデターの関係者は逮捕されたが、その首謀者達はゴルバチョフの側近だったため、皮肉にもゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼は失墜していた。午後0時にエリツィンはクーデターに対する勝利宣言を行う。これには市民20万人が参加したが、ゴルバチョフが姿を見せることはなかった。夕方にゴルバチョフはプレスセンターで記者会見を行う。同日夜になると、モスクワ中心街で共産党活動の禁止を要求するデモが行われた。

ソ連共産党解体

翌日の8月23日、ゴルバチョフはロシア議会で今後のソビエト連邦と党に関する政見演説を行うが、議員達は彼の演説に耳を傾けることはなかった。エリツィンはソ連共産党系のロシア共産党活動停止の大統領令に署名を行う。翌8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任、資産を凍結し党中央委員会の自主解散を要求。ロシアはエストニアとラトビアの独立を承認した。クーデターからおよそ10日後の8月28日、ソ連議会がパヴロフ首相の不信任案を可決、ソ連最高会議は共産党の活動全面停止を決定。クーデターを支持した「プラウダ」等の共産党系新聞5紙が発禁処分となった。また、クーデターを支持したとしてタス通信ノーボスチ通信の社長も解任された。

余波

1991年12月までにソビエト連邦構成共和国はすべて独立を宣言した。また、新連邦条約についての交渉は新たに始まった。ソ連およびアメリカは、9月にバルト三国の独立を承認した。ゴルバチョフはモスクワ帰還後数か月の間、政権の安定と合法性を取り戻す為の努力を行ったがそれは不発に終わった。11月に7共和国が、主権共和国連邦結成条約に同意した。しかしウクライナは参加せず、エリツィンはロシアの利益を求め同意を破棄した。ソ連共産党が存在しない状態では、連邦構成共和国を協調させることができなかった。エリツィンはロシアが他の共和国の厳しい経済に対する責任を負うことになると考えたため、ロシアの新条約への参加は考えられなかった。

12月8日にエリツィンおよびベラルーシスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長、ウクライナレオニード・クラフチュク大統領が、ベラルーシのベロヴェーシの森の旧フルシチョフ別荘で秘密裏に会合をもった。ここで彼らは、3国がソ連邦を設立した1922年の連合条約からの離脱と、独立国家共同体(CIS)を創設に、合意した(ベロヴェーシ合意)。中央アジア、アルメニアおよびアゼルバイジャンの5共和国を含め独立国家共同体を拡張するための署名式は、12月21日にアルマアタで執り行われた。グルジアは、ゴルバチョフの親友であったエドゥアルド・シェワルナゼがグルジア大統領となる1993年(ただし、1992年に国家評議会議長に就任しており、正式に大統領となったのは1995年)まで、これに参加しなかった。

ソビエト連邦は1991年12月25日に消滅した。ゴルバチョフが、エリツィンを共産党のモスクワ市委員会を運営するように任命した1985年12月25日からちょうど6年後のことだった。

インターネットによる変革の先駆け

この8月クーデターが失敗に終わった原因として、当時はまだ普及していなかったインターネットがもたらしたとAFPは分析している[5]

放送局も新聞社も保守派によって占拠され情報統制されている中、エリツィン率いる改革派は打つ手なしだったが、当時ソ連の専門家が開発していた電子メールシステム「RelCom」から、1990年に電子ファイルを電話回線を用いてフィンランドに送信する際、何らかの原因でUsenetに漏えいした経緯を利用して、何者かによってエリツィンが発信した声明をファックスで受け取り、ネットワークを介して西側諸国に配信されていた。

西側のテレビによって情報源を明らかにされたのにもかかわらず、KGBは全く動かなかったという。というのも、実はクーデターの数週間前にはKGBがRelCom制作チームのオフィスに乗り込んだものの、モデムなどの役割がわからず、機材の押収やメンバーの逮捕なども起こらず立ち去っていることがあったからである。

クーデターから数ヶ月後に、RelCom制作チームの一人から事の次第を知ったエリツィンが、「新聞もラジオもテレビも機能していなかった。それでも国民は(自分の声明を)知っていた。君たちのおかげだったのか!」と驚き感謝している。

脚注

  1. リスナー投稿番組『お便りスパシーボ』へ寄せられた質問への回答
  2. день второй. 20 августа 1991 года, Русский Журнал.
  3. Кречетников. «Хроника путча: часть II»
  4. — Государственный недоворот
  5. 91年の旧ソ連クーデター未遂、初期電子メールが世界に情報発信 2013年8月19日付AFP BB Newsより。以下この章の文章も左記からの脚注。

関連項目

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