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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox Musician ザ・ベンチャーズ (The Ventures) は、1959年に結成された、アメリカ合衆国のエレクトリックギターを主軸としたインストゥルメンタル・バンド。特に、日本に於いてはビートルズと並び、その後の音楽業界に多大なる影響を与えたバンドとされている。2008年にはロックの殿堂入りを果たした。
メンバー
1999年以降、1月と夏の2回来日するようになった(1月はノーキー、夏はジェリーがリードギターを務める)。
2005年1月公演より、ボブ・ボーグルに代わり、ボブ・スポルディングがツアーメンバーを務めている。
デビュー時は、リードギターとリズムギターのデュオであったが、スカウトによりベース、ドラムスが正式に加わり、このバンドの基本である4人体制となった。 レコード製作ではスタジオミュージシャンが加わり、例えば「テルスター」ではキーボードがメロディーを取り、「十番街の殺人」はサックスをレスリースピーカーを通して、ハモンドオルガン風に加工したエフェクト音を加えアクセントとした。スタジオ盤ではキーボードを使用した曲も多いが、正式にキーボードを加えた5人体制だったのは1969年から1972年である。ライブではリードギターとベースが途中で交代する場面もある(初期の曲はボブ・ボーグルがリードギターを担当するなど、サウンドの変遷を考慮している)。
- ドン・ウィルソン(Don Wilson 1933年2月10日 - ):ワシントン州タコマ出身。リズムギター(結成メンバー)。ベンチャーズのリーダー。
- ノーキー・エドワーズ(Nokie Edwards 1935年5月9日 - ):オクラホマ州ラホマ出身。2代目リードギター、ベース。「ウォーク・ドント・ラン」などのレコーディングにベースとして参加していたが、後に正式に加入。1967年に脱退するが1972年に復帰し、その後、1984年まで活躍する。その後脱退しソロ活動のみを行っていた時期もあったが、1999年以降、レコーディングや毎年1月の日本公演などに、リード・ギター(ベンチャーズ・オリジナルメンバー)として参加し続けている。夏の日本公演ではベンチャーズと行動を別にしており、冬の公演に参加してもスペシャルゲストとして紹介されているが、公式ホームページではメンバーとして掲載されている。
- ジェリー・マギー(Gerry McGee 1937年11月17日 - ):ルイジアナ州ユーニス出身。3代目リードギター、ベース。夏の日本公演でリードギターを担当しており、ベンチャーズのメンバーとしての来日回数はノーキーよりも多い。
- リオン・テイラー(Leon Taylor 1955年9月23日 - ):テネシー州ジョンソンシティ出身。ドラムス。父親であるメル(後述)が急逝した1996年、中野サンプラザにおける9月16日のメル・テイラー追悼公演で後任として紹介され、数曲披露。以降、正式にメンバーとなる。ちなみに、メルが他界した後、96年のツアーのメインドラムは、元ナック(「マイ・シャローナ」)のメンバー、ブルース・ゲイリーが務めた。後に二人ともメル・テイラー追悼アルバム「ワイルド・アゲインII」に参加している。
- ボブ・スポルディング(Bob Spalding 1947年2月10日 - ):カリフォルニア州サンバーナーディーノ出身。ベース、リードギター、リズムギター。1981年よりスタジオ録音に参加していたことから(そのため加入年も1981年として扱われている)、2005年1月の日本公演以降、腰痛が悪化しライブ活動が困難になったボブ・ボーグルの後任としてライブに参加。スタジオ録音ではリードギターの他リズムギターを担当するケースもある。メル・テイラーがベンチャーズを一時離れていた頃に、ジェリー・マギー、ビル・リンカーンと結成していたメル・テイラー&ザ・ダイナミックスでは、リズムギターを担当していた。作曲のほかアレンジなどでも現在のベンチャーズに多大な貢献をしており、"5人目のベンチャーズ"と呼ばれている。
旧メンバー
- ボブ・ボーグル(Bob Bogle 1934年1月16日 - 2009年6月14日):オクラホマ州ワグナー出身。ベース、初代リードギター(結成メンバー)。2005年以降、腰痛の療養のためライブには不参加(レコーディングには参加していた)。12年間の闘病生活の末、2009年に非ホジキンリンパ腫のため75歳で死去。
- メル・テイラー(Mel Taylor 1933年9月24日 -1996年8月11日):ニューヨーク州ブルックリン出身。3代目ドラマーで、リオンの父である。1972年にソロ活動(メル・テイラー&ザ・ダイナミックス)のため脱退したが、1978年に復帰した。1996年日本公演中に体調が悪化し緊急帰国、肺癌のため急逝。
- ジョージ・バビット(George T. Babbitt, Jr. 1942年6月22日 - ):ワシントン州ブレマートン出身。初代ドラマー。未成年であったため、クラブなどでの活動が出来ずに脱退。その後、米空軍の将軍になる。1998年3月1日にテンプレート:仮リンクとともに、ベンチャーズと再共演。
- ホーウィー・ジョンソン(Howie Johnson 1935年 - 1988年):2代目ドラマー。交通事故に遭い後遺症が残ったことからツアーへの参加が難しくなった為1962年に引退。ベンチャーズ脱退後は音楽ビジネスから引退していた。1989年死去。
- ジョー・バリル(Joe Barile 本名バリル・ギオパン・デュセッペ。1947年7月 - ):イタリア出身、幼少期にアメリカに移住。3代目ドラマーとして1972年から1978年に在籍。1978年の来日ツアー中にコカインの使用が発覚、逮捕される(不起訴処分と9る)。このためイメージの悪化を避けたいメンバーは彼をバンドから解雇。その後は表立った音楽活動からは遠ざかっていたが、1991年のベンチャーズのCDアルバム『ふたりの海岸物語(play SEASIDE STORY)』の「ウェイクアップ・ドリーム」などにパーカッションで参加しており、以後も時々レコーディングに参加している。
- ジョン・ダリル(John Durrill 1941年8月2日 - ):テキサス州ヒューストン出身。元ファイヴ・アメリカンズのメンバー。キーボードとして1969年から1972年に在籍。2008年の「ロックの殿堂」授賞式に、ジェリーの代理として久々にベンチャーズと合流した。
- ビフ・ビンセント(Bif Vincent):キーボードとして1975年から1976年に在籍。離脱後はスタジオミュージシャン、編曲家、レコーディングエンジニア等で活躍。その後もベンチャーズと交流が有り、ビフのスタジオでベンチャーズがレコーディングなどを行っている。
- デイヴ・カー(Dave Carr 1943年8月4日 - 2011年7月14日) :イギリス、ロンドン出身、元ザ・フォーチュンズのキーボーディスト。ジョン・ダリルの後任として1972年から1975年に参加。その後も作曲家、編曲家、プロデューサーとして活躍する一方ベンチャーズとの交流は続き、レコーディングに度々参加していたが、2011年に心臓発作によって死去。
- サンディ・リー(Sandy Lee 生没年不詳):ジェリー・マギーと共に1968年から2年間参加した女性キーボーディスト。健康上の理由によりベンチャーズを離れる。1980年代に死去。後にドラッグの不法所持が発覚したために解雇されていたことが明らかになった。
この他、1970年代半ば頃には、リーシャ・キャリー、スーザン・シュレイバーといった女性ボーカリストがツアーに参加したこともある。
来歴
1959年ドンとボブにより結成。結成時は「インパクツ」を経て「ヴァーサトーンズ」と名乗っていたが、すでに使われていたため、ドンの母親であるジョシーからの提案によって「ザ・ベンチャーズ」と名乗るようになる。当初の演奏スタイルは、リードギターとリズムギターを曲によって交代し、正式なベースとドラムスは不在だった。フェンダー社製のストラトキャスターやジャズマスターを主に使用していた。2人は昼間に建築業をしていたが、夜にはクラブに出演してキャリアを積み、音楽関係の人脈を作る中で、ノーキー、ホーウィーをメンバーとしてスカウトする。
デビュー曲は「ブルー・ホライズン」からリリースした「ザ・リアル・マッコイ/クッキーズ&コーク」であるが、続く全米メジャーデビューは1960年発売の「ウォーク・ドント・ラン(急がば廻れ)」で、地元シアトルのラジオ局がニュース番組のテーマ曲として起用したことから火が付き、瞬く間にビルボード誌のヒットチャート第2位を記録した。正式のドラマーが不在だったので、スキップ・ムーアというクラブミュージシャンが担当したほか、ベースを後に正式加入するノーキーが弾いている。程なくホーウィーが交通事故に遭遇し、後遺症が残ったことからツアーに同行することが難しくなったため(脊椎を損傷したことが原因と言われている)脱退、メル・テイラーを迎えて黄金時代の四人が揃うことになる。メルの加入以前に、リードギターの担当がボブからノーキーに交代している。バック・オウエンスのバンドメンバーとして、既にギタリストとしてのスタイルを完成していたノーキーに任せたほうがバンドの将来にもいいだろうとのボブの判断による交代で(ボブ自身もベースの楽しさ、自由度に開眼したことも理由である)、ノーキーも後のインタビューで「ボブがリードギターを担当しているのはせいぜい数曲だろう」という由の発言をしている。
初来日は1962年のことで、ドンとボブの2人が東芝音楽工業(のちに東芝EMI)のイベントに参加し、ベース、ドラムスは日本人が担当した。ボブの回想によると、ベースはなんとウッドベースで、「とにかく何もかも滅茶苦茶だった」とのことである(ほとんど演奏できなかったために結局ドンとボブ二人だけの演奏にすぐ切り替えたという)。ちなみに同時に来日したのはボビー・ヴィー(後に共作のアルバムをリリースする)、ジョー・アン・キャンベルであったが、観客のほとんどは日本側のアーティストであったスリーファンキーズのファンだったという。また、当時四人ではなくドンとボブ二人だけの来日となった原因は、日本側が用意したギャラが二人分しか用意できなかったためである。この頃はパッケージツアーとして、オーストラリアやニュージーランドなどをツアーし、米軍基地への慰問なども行った記録が残っている。
ベンチャーズが日本で人気が出たのは2回目の来日(1965年1月、アストロノウツなどとのパッケージツアー)で、ドン、ボブ、ノーキー、メルの4人で行った日本公演からであった。彼らはシグネイチャーモデルである、モズライトのギターで真空管アンプのもつダイナミックなサウンドを奏で、たちまち日本の若者たちをとりこにし、日本に大エレキ・ブームを巻き起こした。 低音弦をスライドさせて、ピッキングを行う「クロマティック・ラン」奏法のサウンド(日本では一般的に「テケテケ」と呼ばれる)と共に、「ダイアモンド・ヘッド」、「パイプライン」(これを題材にしたのが映画化もされた芦原すなお原作の『青春デンデケデケデケ』)、「10番街の殺人」、「ウォーク・ドント・ラン」、「キャラバン」など、数々のヒット曲を生み出した。彼らが本国米国で一番人気があったのは60年代で、日本では長く人気を保ち来日回数は50回を超える。
1960年代後半から1970年代前半にかけ、日本を意識した曲を作るようになり、日本サイドで歌詞を付けて発売したことで、作曲家としても注目されるようになる。越路吹雪のために書いた銀座の夜景をイメージした「GINZA LIGHTS」[1]が「二人の銀座」(和泉雅子&山内賢)としてリリースされたのを皮切りに、「北国の青い空」(奥村チヨ)、「京都の恋」「京都慕情」(渚ゆう子)、「雨の御堂筋」(欧陽菲菲)などの歌謡曲を送り出し、それらはベンチャーズ歌謡と呼ばれた。これには当時メンバーを離れたノーキーに代わって参加したジェリー・マギーの幅広い音楽性が作用しているとも言われている。特に「京都の恋」は、(1970年)第12回日本レコード大賞企画賞を受賞している。
現在でも日本に於いて定期的にコンサートツアーを行っている。米国のバンドではあるものの、インストゥルメンタル主体のバンドであるが故、言語の壁を乗り越えてその明快な楽曲が受け入れられ、米国以上に日本のポップシーンに影響を及ぼした。日本におけるレコード等の総売上は4000万枚を超える[2]。
1960年代当時、2ヶ月に1枚のハイペースでアルバムを出しながらツアーを回るというスケジュール事情から、ベンチャーズのメンバーは1960年代には基本的にステージメンバーであり、レコーディングでは過半数の音源がスタジオ・ミュージシャンによるものであると主張する者もいるが、全くのデマであり、他のアーティストのシングル発売のペースでアルバムを発売していた。メンバー個々のスケジュールの都合などによって一部の楽曲にはメンバーが全面的に参加していない物も多少存在している。 ジェフ・ベックなどのアーティストが来日する度に、ベンチャーズのアルバムを買い漁っていたという。
2004年日米交流150周年記念外務大臣賞を受賞し、ドン、ボブ・ボーグル、ノーキーが授賞式に参加した。
2006年、彼らの最初の大ヒット曲である"Walk Don't Run"がグラミー賞の殿堂入りを果たす。
2008年ロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)入りを果たした。ドン、ノーキー、リオン、ボブ・スポルディング、ジョン・ダリル(ジェリー・マギーの代理として出席)がニューヨーク・ウォルドルフ・アストリアホテルで開催された授賞式に参加し、「ウォーク・ドント・ラン」を基本編成の4人で、「ハワイ・ファイブ・オー」をブラスセクションをバックに演奏した。</br>
現在も世界各国に根強いファンがおり、コピーバンドも多数存在する。しかし、日本との特別な関係や、与えた影響という観点から、日本の音楽史に無くてはならない存在ともなっている。1996年にメル・テイラーが、2009年に結成時のメンバーであるボブ・ボーグルが他界したが、今もなお現役でステージに立ち続けている。2009年に結成50周年、2014年に結成55周年を迎えた。
サウンド・スタイル
最初のヒットシングルとなった「ウォーク・ドント・ラン(急がば廻れ)」は、ドン・ウィルソンのインタビューによると、チェット・アトキンスが自身で編み出した「ギャロッピング奏法」をベース、メロディ、コードバッキングに分解し、それにドラムパートを加え、ロックンロールのリズムに乗せた物であり、このシンプルなスタイルが以後のベンチャーズの基本的なアレンジとなって現在に至っている。
二代目のリード・ギタリスト(初期はベーシスト)であるノーキー・エドワーズは2回目の来日公演(1965年1月)で「電気ギターの王様」と紹介され、天才的で卓越したテクニックは多くの日本のギタリスト達に影響を与えた。彼はカントリー・ピッキング(親指にピックを固定し、人差し指や中指を同時に利用する多指奏法)を基本としたテクニックで、トレモロアームをアクセントとして使用し、モズライトギターの高出力ピックアップを活かしたダイナミックなサウンドを作り出していた。特に1965年7月来日時の録音を収めた赤盤ライブでの、「クルーエル・シー」、「ペネトレイション」、「ドライビング・ギター」、「キャラバン」などはその特徴が顕著である。その後、彼は1980年代にベンチャーズを脱退(2度目の脱退)し、ソロ活動が中心となっているが、公式ホームページでは脱退扱いにはなっておらず、毎年、何度も、ノーキーがベンチャーズに参加してライブ演奏を行っている。近年は、オリジナルモデルのギターを用い、よりカントリースタイルを意識した演奏となっている。
1968年にノーキーが1度目の脱退をし、三代目リード・ギタリストとして加入したのがジェリー・マギーである。ジェリーのサムピックを使用した奏法(ノーキーも1972年に復帰したときからライブでサムピックを使用するようになった)や彼の出身地ルイジアナをルーツとした南部色の強いソウルフルなサウンドが特徴的である。「朝日のあたる家」は、ベンチャーズが1960年代からもともとレパートリーとしているが、1980年代にジェリーが再加入した後のライブでは彼独特のアドリブによるブルージーなサウンドが、新たな聞かせどころとなっている。また元来スタジオミュージシャンとしてエミルー・ハリス、エルビス・プレスリー、モンキーズなど多数のレコーディングやセッションなどの経験を積んで来たため、幅広いスタイルの音楽に柔軟に対応できる懐の深さを持ち合わせている。近年は、中音域をブーストさせる回路の付いたストラトタイプのギターを用いており、曲によってブーストのかかり具合を微調整して、音色にバリエーションを持たせる工夫をしている。
ライブでは「キャラバン」を演奏せずに終了し、アンコールで「キャラバン」を演奏するのがお決まりとなっている。
アルバム
- Walk Don't Run(1960年7月)
- The Ventures(1960年10月)
- Another Smash
- Twist With The Ventures
- 2000 Pound Bee - Parts 1 & 2
- Walk Don't Run Vol. 2(1964年)
- Surfing
- The Ventures in Space
- Knock Me Out(1964年)
- The Ventures Christmas Album(1965年)
- Hawaii Five-0
- Joy-Ventures Play The Classics
- The Ventures Greatest Hits(1980年)
- NASA 25th Anniversary Album
- Wild Again II
- Live in Seattle
- Surfin To Baja(2003年)
脚注
- ↑ 和泉雅子インタビュー銀座地下街ラジオくんー第四配信・レトロ銀座特集
- ↑ テンプレート:Cite news