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鳩摩羅什(くまらじゅう、くもらじゅう、サンスクリット:Kumārajīva, कुमारजीव、クマーラジーバ)、344年 - 413年[1]、一説に350年 - 409年とも)、亀茲国(きじこく)(新疆ウイグル自治区クチャ県)の西域僧、後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した訳経僧である[2]。最初の三蔵法師。のちに玄奘など、多くの三蔵が現れた。時にのちの玄奘と共に二大訳聖と言われる。また、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。三論宗・成実宗の基礎を築く。
漢名の鳩摩羅什(くまらじゅう)はサンスクリット名のクマーラジーヴァの音写である[1]。略称は羅什(らじゅう)または什(じゅう)。
略歴
- 350年 インドの名門貴族出身でカシミール[3]生まれのテンプレート:仮リンク(サンスクリット:Kumārāyana)を父に、亀茲国王の妹のジーヴァカ(サンスクリット:Jīva)を母として亀茲国に生まれる。
- 356年 母と共に出家。
- 360年代 原始経典や阿毘達磨仏教を学ぶ。
- 369年 受具し、須利耶蘇摩と出会って大乗に転向。主に中観派の論書を研究。
- 384年 亀茲国を攻略した後涼の呂光の捕虜となるも、軍師的位置にあって度々呂光を助ける。以降18年、呂光・呂纂の下、涼州で生活。
- 401年 後秦の姚興に迎えられて長安に移転。
- 402年 姚興の意向で女性を受け入れて(女犯)破戒し、還俗させられる。以降、サンスクリット経典の漢訳に従事。
- 409年 逝去。
- 臨終の直前に「我が所伝(訳した経典)が無謬ならば(間違いが無ければ)焚身ののちに舌焦爛せず」と言ったが、まさに外国の方法に随い火葬したところ、薪滅し姿形なくして、ただ舌だけが焼け残ったといわれる(『高僧伝』巻2)。
訳出した経典
主なもの。
一部の経典において、大胆な創作や意訳の疑いが指摘されるものの、彼の翻訳によって後代の仏教界に与えた影響は計り知れない。なお、唐の玄奘三蔵による訳経を「新訳」(しんやく)と呼び、鳩摩羅什から新訳までの訳経を「旧訳」(くやく)それ以前を古訳と呼ぶ。
著書
弟子
道生・僧肇・慧観・僧叡の4人を四哲と称す。その他に、道融・曇影・慧厳・道恒・道常などを加えて十哲と称される(なお書により異説あり一致しない)。
注
伝記資料
- 諏訪義純、中嶋隆蔵訳 『高僧伝』(中国・日本篇14「大乗仏典」 中央公論社 1991年)