松本竣介
松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - 1948年6月8日)は、日本の洋画家。 太平洋戦争中の1941年(昭和16年)、軍部による美術への干渉に抗議して、雑誌『みづゑ』に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた日本の画家である。
略歴と作風
松本竣介は、1912年(明治45年)、東京渋谷に生まれた。結婚前の旧姓は「佐藤」。1936年(昭和11年)に松本禎子と結婚して松本姓となる。名前の文字を、本名の「俊介」から「竣介」に改めるのは1944年(昭和19年)制作の作品からである。以下の文中では煩雑を避けるためすべて「竣介」と記述する。
竣介は、父親の仕事の関係で満2歳の時に岩手県花巻へ移住。少年時代を花巻及び盛岡で過ごした。後年、東京在住の岩手出身者を中心とした「北斗会」の展覧会に出品しているところを見ると、竣介は厳密には東京生まれであるが「岩手の出身者」という意識をもっていたようだ。
1925年(大正14年)、旧制盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)入学の年、竣介は病気(脳脊髄膜炎)のため聴力を失う。聴覚障害者となった竣介は、3つ違いの兄・彬から油絵道具一式を贈られたことをきっかけに絵に打ち込みはじめ、画家を目指すようになった。1929年(昭和4年)、中学を3年次で退学して兄・彬とともに上京、太平洋画会研究所(のち「太平洋美術学校」に改称)で絵を学ぶ(彬の上京は東京外国語大学進学のためであった)。
竣介は、都会風景を好んで描いた画家として知られる。作品は、青系統の透明な色調のなかに無国籍的な都会風景や人物をモンタージュ風に描いた系列と、茶系統のくすんだ色調で東京や横浜の風景を描いたものの2つの系列があるが、戦時色が濃くなるにつれ、後者のくすんだ色調の風景が多くなる。
竣介は、『無産階級の画家 ゲオルゲ・グロッス』(柳瀬正夢編著、1929年刊)という本を愛読し、社会派のドイツ人画家グロッスの影響を受けたことが知られている。竣介の作品にはグロッスの作品のようなあからさまな社会風刺や思想的なものはほとんど見られないが、線描のタッチからは影響を受けていると考えられる。
兄の彬は、宗教系保守政治圧力団体・新興宗教団体「生長の家」の教祖谷口雅春に傾倒していた。竣介は、彬が1933年(昭和8年)に創刊した雑誌『生命の藝術』の仕事を手伝い、小説などを寄稿してもいた。また、妻の松本禎子とは「生長の家」の仕事を通じて知り合ったという。竣介自身も1936年(昭和11年)にデッサンと随筆の月刊誌『雑記帳』を創刊しており、この雑誌は24号まで刊行された。このように竣介は画業のかたわら、多くの文章を書いている。中でも著名なものは、美術雑誌『みづゑ』1941年(昭和16年)4月号に書いた論文「生きてゐる画家」である。竣介のこの文章は、画家にも国威発揚、戦意高揚のための芸術制作が求められていた時代のなかで、「芸術の自立」を主張したものとして知られている。
1945年3月に家族を妻・禎子の出身地であり実家のある松江へと疎開させる。戦後、1948年(昭和23年)に持病の気管支喘息により病死。満36歳没。
墓所は松江市の真光寺にある。
代表作品
- 街(1938年、大川美術館)
- 画家の像(1941年、宮城県美術館)
- 立てる像(1942年、神奈川県立近代美術館)
- Y市の橋(1942年、岩手県立美術館) - 同名の油絵は4点あり。
- 鉄橋付近(1943年、島根県立美術館)
- 裸婦(1944年頃)(文化遺産オンライン)