固定 (組織学)
固定(こてい)とは、生物試料を自己分解や腐敗による劣化から保護するための化学処理をいう。固定によりあらゆる生化学反応が停止し、場合により物理的強度や化学的安定性が向上することもある。固定された試料は標本として保存され、あるいは包埋・薄切・染色などを経て観察される。
目的
研究・検査の過程において、生物試料(個体・組織・細胞など)をできるだけ自然の状態に近いまま維持することが目的である。そのために通常いくつかの条件を満たさなければならない。
- 内在性の生体分子、特にタンパク質分解酵素を不活化させること。
- 外来性の損傷から守ること。すなわち細菌などの微生物に対して毒性を示し、あるいは試料を微生物が栄養にしにくい形に化学的に修飾すること。
- 強度・安定性を向上させること。以降の過程で試料の形態が損なわれないようにする。
固定は生物試料を顕微鏡などによる解析に用いるための最初の過程である。したがって固定法の選択はその後の過程や最終的な目的によって変わる。たとえば免疫組織化学では特定のタンパク質に結合する抗体を用いるが、固定時間が長くなると標的タンパク質が化学的に遮蔽されて抗体が結合できなくなることがある。そのため通常はたとえば冷却ホルマリン1日程度の短時間固定が用いられる。
どんなに優れた固定であっても、人工的に試料を変化させているため人工産物を生じる危険性がある。例えば1970年代に電子顕微鏡によってグラム陽性細菌に見出されたメソソームは、その後の凍結置換法の発展の結果、化学固定による人工産物であることが示された[1][2]。固定やその他の処理を標準化する際には、どの過程がどんな人工産物を生じるかを考慮しなければならない。組織や手法によってどんな人工産物が生じるかに精通することで、結果を正確に解釈したり、なるべく人工産物ができない手法を選択することができるようになる。
機序
生体に含まれるタンパク質を変性させることで酵素の活性が失われる。またゲルやゾルの状態だった原形質が完全に固体となることで形態が固定される。通常は薬品(固定剤)による化学的な処理を用いるが、温度・圧力による物理的な変性を利用することもある。
架橋固定
生体分子間に共有結合をつくることによるもの。これにより可溶性のタンパク質なども細胞骨格や生体膜などに固定され、機械的強度も高まる。
アルデヒド
組織学で最もよく使われるのはホルムアルデヒド(飽和水溶液がホルマリンと呼ばれている)である。ホルムアルデヒドは主に塩基性アミノ酸のリジンの側鎖に作用すると考えられている。グルタルアルデヒドも頻用されており、作用機序はホルムアルデヒドと同様と考えられている。ホルムアルデヒドより分子が大きいため組織への浸透は遅いが、より遠い距離にあるタンパク質同士を架橋することができ固定力は強い。 この2者の利点を組み合わせるために、ホルムアルデヒドとグルタルアルデヒドを混合して用いる場合もある。
酸化剤
四酸化オスミウム、二クロム酸カリウム、クロム酸、過マンガン酸カリウムなど
四酸化オスミウムは電子顕微鏡用の試料の固定に頻用される。単独でも固定可能だが浸透性が悪いため、アルデヒドによる前固定を行ったあと後固定として用いるのが普通である。生体膜を固定する力が強く、生体膜の電子染色を兼ねている。固定によって試料が黒化し抗原性もほとんど失われるため、光学顕微鏡や免疫電顕用の試料には用いられない。
析出固定
タンパク質の溶解度を減少させ、また疎水結合を破壊することによるもの。これによりタンパク質は変性し、析出・凝集して不活化される。 有機溶剤のエタノールやメタノールが非常によく使われるほか、アセトンも利用されている。 酢酸は変性剤として有機溶剤と組み合わせて利用される。一般にアルコールが組織を収縮させるのに対し、酢酸は膨潤させる効果があり、組み合わせることで形態の保持が良くなる。 その他ピクリン酸や塩化水銀などがある。
その他
熱変性により固定することも行われている。
手法
大別して2種ある。
- 浸漬法
- 試料をその体積の20倍以上の固定液に浸けておく方法。個体・組織・細胞など幅広い試料に使える。固定液は自然拡散によって浸透してゆくため、組織の大きさや密度などを考慮する必要がある。
- 灌流法
- 十分量の固定液を心臓に注射し血流に乗せる方法。循環系を備えた高等動物でしか使えないが、固定液が瞬時に全身に行き渡り、組織が固定される時点まで生きている。したがって形態保持の点で利点があるが、個体が死亡することと、多量の固定液を必要とするためコスト面でも不利である。
その他、塗抹標本の場合には単に火で炙るだけで固定とすることもある。
固定液
固定剤は単剤で用いられるほか組み合わせたり、用途によってはpH変化を和らげる緩衝剤、浸透圧や粘性を調節する塩や糖など、様々な化合物と調合して用いられる。
- ブアン液
- 動物組織で頻用されている。ピクリン酸飽和水溶液:ホルマリン:氷酢酸=15:5:1。
- FAA (Formalin/Acetic acid/Alcohol)
- 植物組織で頻用されている。ホルマリン:氷酢酸:50%エタノール=1:1:18など。
固定法の歴史
組織学における固定法歴史的発達の概略を以下に年表で示す。[3]
- 1780年頃:アルコール固定の発明―(フェリックス・ヴィック・ダジール)
- 1809年:アルコール固定に炭酸カリ、アンモニアを添加―(Reil)
- 1840年:クロム酸固定―(Hannover)
- 1842年:連続凍結切片作成法の確立
- 1859年:ミュラー液固定法―(Muller)
- 1865年:四酸化オスミウム固定―(Schulze)
- 1869年:パラフィン切片作成法の確立―(Klebs)
- 1879年:セロイジン包埋―(Duval)
- 1893年:ホルマリン固定―(Blum)
関連項目
脚注
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- ↑ 萬年甫,原一之. (1994) 『脳解剖学』南江堂