リットリオ (戦艦)
ファイル:Bundesarchiv Bild 183-S54286, Italien, Schlachtschiff "Littorio".jpg | |
艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1934年10月28日 |
進水: | 1937年8月22日 |
就役: | 1940年5月6日 |
退役: | |
その後: | スクラップとして廃棄 |
除籍: | 1948年6月1日 |
性能諸元 | |
排水量: | 基準 43,835 トン、 満載 45,963 トン |
全長: | 224.5 - 237.8 m |
全幅: | 32.9 m |
吃水: | 10.5 m |
機関: | 8缶、4軸推進、140,000 hp |
最大速: | 31.50ノット (58 km/h) |
兵員: | 1,920名 |
兵装: | 50口径381mm砲9門 55口径155mm砲12門 50口径90mm砲12門 50口径37mm砲20門 65口径20mm砲30門 |
艦載機: | 3機 |
リットリオ (Littorio) は、イタリア海軍の戦艦。ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の2番艦。
艦名の“Littorio”とは古代ローマで、権力と団結のシンボル「ファスケス」を担っていた役職「リクトル(ラテン語:Lictor)」のイタリア語表記で、それより転じて公権力の象徴を意味する。
また、ファスケスは国家ファシスト党のシンボルでもあり、三つ並んだファスケスは、ファシズム体制下イタリアの国家標識でもあった。
艦歴
リットリオはジェノヴァのアンサルド造船所で1934年10月28日に起工する。1937年8月22日に進水し、イタリアがフランスおよびイギリスとの戦争開始後の1940年5月6日に竣工した。
1940年8月31日から9月2日、リットリオは大規模なイタリア艦隊の一員としてハッツとMB3作戦参加中のイギリス海軍部隊迎撃に出撃したが、戦闘は発生しなかった[1]。同様のことは9月29日から10月1日のイギリス軍のMB5作戦のときにもあった[2]。
11月11日のタラント空襲でリットリオには3本の魚雷が命中、修理に5ヶ月を要する損傷を負った。
修理完了後、1941年9月27日にマルタへ補給物資を輸送する連合国船団アルバート攻撃に参加。12月17日、第1次シルテ湾海戦に参加。リットリオは北アフリカへ補給物資を輸送するM42船団の遠距離護衛部隊に配属されており、その部隊がマルタへ向かうイギリス船団の護衛と交戦した。
1942年1月3日、リットリオはM43船団支援の任務についた。3月22日、第2次シルテ湾海戦に参加。リットリオはイギリスのマルタ行き船団攻撃に向かった部隊の旗艦であった。海戦中、リットリオは主砲により駆逐艦ハヴォックとキングストンに命中弾を与えた。6月15日、マルタへ向かうヴィガラス船団の迎撃に向かう。その帰路、イギリス軍ビッカース ウェリントンの攻撃で魚雷1本が命中した。
1943年7月30日、イタリア (Italia) と改名される。9月8日にイタリアと連合国との休戦が成立すると、翌日イタリア艦隊は連合国に降伏。マルタへ向かったがその途中でフリッツXを搭載したドイツ軍Do 217の攻撃を受けた。イタリアは前部主砲の右舷側に被弾し、同じく被弾した同型艦のローマは沈没した[3]。その後戦争の終わりまでイタリアはエジプトのグレートビター湖にとどまっていた。
リットリオは46回の作戦活動に参加し、その内の9回は索敵攻撃任務であり、3回は護衛任務であった。
第二次世界大戦後、イタリアは賠償艦としてアメリカ合衆国に回航され、1948年にスクラップとして廃棄された。
脚注
参考文献
外部リンク
- Corazzata Littorio - Plancia di Comando
- Scheda sintetica sul sito web della Marina Militare Italiana - Almanacco storico
- la fine delle grandi navi da battaglia italiane
- Battleship 'Littorio' (1934)「リットリオ」の写真とスペックがあるページ。
- Littorio本艦の写真とスペックがあるページ。(イタリア語)