ラウール (西フランク王)
テンプレート:基礎情報 君主 ラウール(Raoul)(890年頃 - 936年1月14日)は、921年から923年までブルゴーニュ公。923年から没まで西フランク王。ボゾン家からの只一人の西フランク王だった。在位13年。威令はほぼ全国に行き届いたと言う[1]。ラウルとも書く。フランス語でRaoul(ラウール)。ドイツ語ではRudolf(ルドルフ)。英語ではRudolph(ルドルフ)。ブルグンド王ルドルフ1世(Rudolph I of Burgundy)は別人。
生涯
カロリング朝の末期で、西フランク王国の領邦諸侯が力を付けていた。それら有力者の一人、ブルゴーニュ公リシャール2世(Richard II de Bourgogne)と、ヴェルフ家オセール伯コンラート2世の娘アデレード(Adélaïde)との長男に生まれた。
921年父が没し、ブルゴーニュ公・オセール伯・オータン伯・アヴァロン伯・オセールのサン=ジェルマン寺院(Abbaye Saint-Germain d'Auxerre)司教・サンスのサン=コロンブ寺院(Abbaye Sainte-Colombe de Sens)司教、を継いだ。寺院には所領地があった。
921年、ロベール1世の娘でユーグ大公の姉、エマ(Emma)と結婚した。彼女は、ヴェルマンドワ伯エルベール2世(Herbert II de Vermandois)の妻アデーレと異母姉妹の間柄だった。
- 『ヴェルマンドワ』は10世紀頃ピカルディーにあった地名。
- エルベール2世は、923年 - 929年、シャルル廃王を幽閉した。
ラウールとエマの間の一児ルイは育たなかった、と言う[2]。
時の西フランク王シャルル3世は、そのロレーヌ領有への執着から国内の聖俗諸侯に嫌われて922年に廢され、代わって即位したロベール1世は、923年6月、シャルル廃王とソワソンで戦って没した。その翌月、女婿のラウールがソワソンのサン=メダール修道院(Abbaye Saint-Médard de Soissons)で聖別され、即位した。弟のユーグ黒公がブルゴーニュ公を継いだ。
924年、ロワール川から侵入するヴァイキングを、ユーグ大公と協力して退けた。
925年、ドイツ王ハインリヒ1世がシャルル3世に奪われていたロレーヌを取り戻した陰には、ラウールの黙認があった。
935年、マジャール人がブルゴーニュを侵すことがあった。
治世中、国内諸侯の勢力均衡に配慮した。
病んで、936年1月14日か15日かにオセールで没した。
ラウールの義弟ユーグ大公が聖俗諸侯を説き、イングランドのウェセックスに亡命していたカロリング家のルイ(シャルル3世の子)を、次の西フランク王に迎えた。
出典
- 樺山紘一ほか:『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社(1995)
- フランス語版Wikipediaの当該ページ
- 英語版Wikipediaの当該ページ
脚注
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外部リンク
- [1] 以下の諸リンク。(歴史物語シリーズ)
関連事項
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- ↑ 「樺山紘一ほか:『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社(1995)」の、p.176
- ↑ フランス語版ラウール