ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)

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テンプレート:政治家 第5代ランズダウン侯爵、ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリステンプレート:Lang-en-short, テンプレート:Post-nominals1845年1月14日 - 1927年6月3日)は、イギリス貴族政治家

ヴィクトリア朝後期から第一次世界大戦の頃までイギリス政界の重鎮として活躍した。はじめ自由党に所属していたが、自由統一党を経て保守党へ移籍した。保守党政権下の1900年から1905年にかけて外務大臣を務め、日英同盟英仏協商に調印したことで知られる。

誕生から父親が第4代ランズダウン侯爵となる1863年までは「クランモーリス子爵」(Viscount Clanmaurice)の、1863年から自身が襲爵する1866年までは「ケリー伯爵」(テンプレート:Interlang)の儀礼称号で称された。

経歴

生い立ち

第4代ランズダウン侯爵テンプレート:仮リンクと後妻のテンプレート:仮リンク(旧姓de Flahault)の間の長男として生まれる[1][2]

フィッツモーリス家は12世紀アイルランドケリー州へ移住し、以来同地の領主として君臨してきた家柄である。代々ホイッグ党の政治家の家系であり、曽祖父に首相テンプレート:仮リンクを務めた初代ランズダウン侯爵ウィリアム・ペティ(首相在職時の爵位は「第2代テンプレート:仮リンク」)、祖父に財務相や内相・テンプレート:仮リンクを歴任した第3代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスがいる[3]

イートン・カレッジを経てオックスフォード大学ベリオール・カレッジを卒業した[1][2]

1866年、父の死により21歳で連合王国貴族の爵位「ランズダウン侯爵」、アイルランド貴族の爵位「ケリー伯爵」と家督を相続した。なお後に母親からもスコットランド貴族の爵位「ネアーン卿」(テンプレート:Interlang)を相続している。ランズダウン侯爵家は大地主であるものの、抱える負債も巨額であり、彼も家計のやり繰りには苦労した[4]

自由党政権において

貴族院議員となったランズダウンは自由党に所属し、第1次グラッドストン内閣では1868年から1872年までテンプレート:仮リンク[5]を、1872年から1874年までテンプレート:仮リンク[1][2]を務めた。

1880年第2次グラッドストン内閣が発足するとテンプレート:仮リンク[1][2]に任じられるが、アイルランド自治に関するウィリアム・グラッドストンの方針に反対して辞職[2]、後に自由党からも離党した。

総督として

1883年から1888年までカナダの総督を務めた[6]

ついで1888年から1894年までインドの総督を務めた[7]ルピーの減価でイギリスの対印投資が減少している現状を踏まえて、1893年6月にルピーの変動相場制を停止し、1ルピー=1シリング4ペンス固定相場制へ移行させた。また金本位制導入のため銀貨自由鋳造を停止させた。これによりルピーの交換レートは上がったものの、インド国内の通貨供給が減少し、経済活動の規模は小さくなった[8]。外交面ではアフガン国境の小国フンザナガルを併合し、シッキム王国チトラルカラートを保護国にするなど拡張政策を取った[9]

保守党政権の閣僚として

ファイル:Defence Committee meeting in London.jpg
第三次ソールズベリー侯爵内閣の防衛委員会の会合を描いた絵。左から蔵相ジョージ・ゴッシェン、首相ソールズベリー侯爵、外相ランズダウン侯爵、枢密院議長デヴォンシャー公爵庶民院院内総務アーサー・バルフォア

帰国後は自由統一党リベラル・ユニオニスト)に所属。1895年、第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルを首相とする保守党との連立政権(テンプレート:仮リンク)においてテンプレート:仮リンク[10]として入閣した。陸軍総司令官人事ではガーネット・ウルズリーを任命し、エドワード・カードウェルの路線を継承して陸軍への文民統制を強化した。在任中の1899年に第二次ボーア戦争が勃発するが、5万人以上と予想されるブーア軍に対して3万5千人の動員が必要である、とのウルズリーの進言を「徹底的に効率の良い状態にある」1万人で事足りるとするなどしたことから、戦争準備が不十分であったことを批判された[2]

1900年10月にソールズベリー侯爵の後を受けて外務大臣へ転任した[1][2][11]。中国分割をめぐるロシア帝国主義の極東進出を憂慮し、極東の現状維持ができる国として日本に注目し、首相ソールズベリー侯爵の賛成も得て、1902年1月30日にはロンドンにてイギリス駐箚日本公使林董男爵(後に伯爵)との間で日英同盟を調印した[12]

続くアーサー・バルフォア内閣でも外相に留任した。1903年5月15日にはペルシア湾におけるイギリスの優越権を宣言してロシア帝国南下政策を牽制した。また日本国内の日露協商派の動きを警戒し、1903年7月には日本政府に対して日本が独断でロシアと協商を結ばないよう釘を刺した[13]。日英同盟は「日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つ」という約定になっていたため、フランスがロシアとともに日本に宣戦布告せぬようフランス取り込みに腐心した。フランス外相テオフィル・デルカッセと交渉を進め、両国の懸案事項である世界各地での植民地争奪戦を互譲的に解決していき、1904年4月8日英仏協商を締結させることに成功した[14]

1903年から政権与党内でジョゼフ・チェンバレンら関税改革(保護貿易)派と蔵相テンプレート:仮リンクら自由貿易派の対立が深まったが、ランズダウン卿はチェンバレンを支持していた。この件での政権与党内の亀裂は深まる一方で、党分裂を避けるため1905年12月にバルフォア内閣が総辞職するまでの事態となった[15]

保守党野党時代

1906年総選挙において自由党が圧勝すると、保守党が半永久的に多数を占めている貴族院から自由党政府の政策に抵抗するという保守党党首アーサー・バルフォアの計画に協力し、初等教育から宗教教育を排除することを目的とした「教育法案」や富裕の醸造業者の独占を制限することを目的とした「酒類販売免許法案」などを貴族院で廃案に追い込んだ[16]

1909年には貴族院は予算案に介入しないという慣例を破って「テンプレート:仮リンク」を否決した。この予算案には土地課税が盛り込まれており、地主貴族から土地の国有化を狙う「アカの予算」として強い反発を招いていたためだった。ランズダウン卿も「土地課税が実施されるには土地の評価が前提となる。引いてはこれが土地の国有化につながる」と批判している[17]

しかしこれを受けて首相ハーバート・ヘンリー・アスキス庶民院を解散。1910年1月のテンプレート:仮リンクハング・パーラメントとなったものの自由党はテンプレート:仮リンクと連立して予算案を通過させた[18]

さらに同年12月のテンプレート:仮リンク後、自由党政権は貴族院の権限を縮小する議会法案を提出してきた。これに対してランズダウン卿は初め徹底抗戦で臨んだが、自由党政権は1911年7月に選挙前に国王から新貴族任命の約束を得ている旨を明らかにし、議会法案を貴族院が否決したら法案に賛成する新貴族任命を行うであろうことをバルフォアやランズダウン卿ら保守党幹部に通告した。ここに至ってランズダウン卿は党首バルフォアとともに法案を可決させるしかないと判断し、貴族院保守党の説得にあたったが、貴族院保守党には徹底抗戦派が多かった。ランズダウン卿はじめ妥協派の保守党貴族院議員ははじめ棄権を考えていたが、棄権すると議会法案否決の公算が大であったため、賛成する方針に転じ、賛成131、反対114の僅差でなんとか可決させた。この結果、イギリスにおける庶民院の優越が確定することとなった[19]

第一次世界大戦

第一次世界大戦中の1915年ガリポリの戦いはじめ好転しない戦局からアスキスは保守党も取り込んだ挙国一致内閣テンプレート:仮リンク)を組織した。この際にランズダウン卿も保守党からの閣僚として無任所大臣として入閣、首相がデビッド・ロイド・ジョージに代わる1916年まで務めた[1][2]

戦死者の急増で兵員が枯渇してくるとロイド・ジョージやチャーチルカーゾン卿といった閣僚たちとともに徴兵制導入の主要論者となり、慎重派閣僚たちを退けて、1916年5月に18歳から41歳の男性を一律に即時徴兵する法案を可決させることに成功した[20]

1916年11月には講和覚書を書き、閣僚たちに回覧した。その中でランズダウン卿はイギリスが今度の大戦で負った甚大な人的・財政的・物的損害を列挙したうえで「この負担に耐えることはもとより国民の義務であり、国民の士気も衰えてはいないが、近い将来敵国を打倒し、無条件降伏を受諾させられるかは極めて疑わしい。そうなると無用の殺戮を不必要に長引かせていることに責任が生じよう。」と論じ、ドイツとの講和交渉に応じる可能性を排除すべきではないと訴えた。だがこれは陸軍大臣ロイド・ジョージら反政府派から厳しく批判された(ロイド・ジョージはアスキスに対する政権内不満分子になりはじめていた)[21]

晩年・死去

1927年6月3日心臓発作のため死去。82歳。爵位は長男のテンプレート:仮リンクが相続した。遺産は土地が 1,044,613 UKポンド、他の資産が 233,888 UKポンドであった。 テンプレート:-

栄典

ファイル:Henry Charles Keith Petty-Fitzmaurice, 5th Marquess of Lansdowne by Philip Alexius de László.jpg
ガーター騎士団の正装をしたランズダウン侯爵の肖像画(フィリップ・ド・ラースロー画)

爵位

勲章

その他

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家族

ランズダウンは、初代テンプレート:仮リンクジェイムズ・ハミルトンの娘であるテンプレート:仮リンク1869年11月8日ウェストミンスター寺院で結婚した[1]。夫妻の間には以下の二男二女が生まれた。

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出典

テンプレート:脚注ヘルプ

参考文献

外部リンク

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テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1880年 |style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon テンプレート:仮リンク
1895年 - 1900年 |style="width:30%"|次代:
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第3代ソールズベリー侯爵 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
1900年 - 1905年 |style="width:30%"|次代:
サー・エドワード・グレイ准男爵 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
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ローン侯爵 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon カナダ総督
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保守党庶民院院内総務アンドルー・ボナー・ローとともに

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テンプレート:仮リンク

  1. 転送 Template:End
テンプレート:イギリスの外務大臣
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  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 テンプレート:Cite web
  3. タックマン(1990) p.46-47
  4. 浜渦(1999) p.143
  5. テンプレート:LondonGazette
  6. テンプレート:LondonGazette
  7. テンプレート:LondonGazette
  8. 浜渦(1999) p.143-144
  9. 浜渦(1999) p.144
  10. 10.0 10.1 テンプレート:LondonGazette
  11. 坂井(1967) p.287
  12. 坂井(1967) p.295-297
  13. 坂井(1967) p.309
  14. 坂井(1967) p.307-309
  15. 坂井(1967) p.211/219
  16. 坂井(1967) p.416-417
  17. 坂井(1967) p.420/427
  18. 坂井(1967) p.428-435
  19. 坂井(1967) p.456-460
  20. 中村(1978) p.115
  21. 中村(1978) p.121-123
  22. テンプレート:LondonGazette
  23. テンプレート:LondonGazette
  24. テンプレート:LondonGazette