ピョートル3世

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 君主 テンプレート:Sister ピョートル3世テンプレート:翻字併記1728年2月21日 - 1762年7月17日)はロマノフ朝第7代ロシア皇帝(在位:1762年1月5日 - 1762年7月9日)、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ(在位:1739年6月18日 - 1762年7月17日)。ドイツ語名はカール・ペーター・ウルリヒテンプレート:Lang-de)。

生涯

生い立ち

ホルシュタイン=ゴットルプカール・フリードリヒと、ピョートル1世の娘アンナ・ペトロヴナの間に生まれた。父の従弟にスウェーデン王アドルフ・フレドリクがいる。幼くして両親を失い、1739年に公位を継承した。1742年、未婚で子供の無い叔母のロシア女帝エリザヴェータから後継者に指名され、サンクトペテルブルクに移って正教に改宗し、ピョートル・フョードロヴィチを名乗った。1745年には父方の又従妹ゾフィー・アウグスタ・フリーデリケと結婚したが、改宗してエカチェリーナと名乗った彼女には興味がなく、ミハイル・ヴォロンツォフ伯爵の姪テンプレート:仮リンクを愛人とした。ピョートル3世はドイツ語で話すことを好み、プロイセン王フリードリヒ2世の熱烈な崇拝者であったため、エリザヴェータやロシア貴族と対プロイセン政策を巡ってしばしば対立した。

即位

1761年末、エリザヴェータ女帝の崩御に伴い即位すると、七年戦争の最中にプロイセンと即時講和して(テンプレート:仮リンク)、破滅寸前に追い込まれていたフリードリヒ2世を救った。同年4月の対プロイセン休戦条約では占領地域を全て返還し、賠償金も要求しなかったため、ロシア国内及びにロシア軍内から怨嗟の声が上がった。また6月にはプロイセンとの軍事同盟を批准し、軍隊の規律や制服をプロイセン風に改めたため伝統的に反プロイセン感情の強い国民の反感を買った。一方で自らの領するホルシュタインに関心を持ち、父の代に奪われていたシュレースヴィヒ[1]を、ロシア軍を投入してデンマークから奪回しようと計画した。

最後

1762年6月28日、皇后エカチェリーナを支持する近衛部隊がテンプレート:仮リンクを起こし、逮捕された。在位わずか6ヶ月程度の短い治世であった。廃位されたピョートルは首都郊外のテンプレート:仮リンクで軟禁状態におかれ、7月6日、おそらく近衛部隊の独断で(つまりエカチェリーナ2世の許しなく)監視役のアレクセイ・オルロフによって殺害された。公式には持病のの激痛による発作死と発表され、ヨーロッパ諸国の失笑を買った。

人物

一般的に「軽率で無能な君主」「子供っぽく男性機能も欠陥がある」と評されるが、その評価はクーデターを起こしたエカチェリーナ2世の治世に為された、クーデター正当化のプロパガンダ的要素が多分にある。実際には多くの政策が好意的に受け取られ、またエカチェリーナ2世時代に継承された。プロイセンとの同盟は継続され、着手しかけていた教会領地の国有化もエカチェリーナ時代に実現している。人物像および政治手腕については、再評価されるべき点が多いが、やはりプロイセンとの無償講和で軍隊の信望を失ったことが失脚を招いた一番の原因であろう。

脚注

  1. 1720年スウェーデンデンマーク=ノルウェーフレデリクスボー条約を締結した結果、カール・フリードリヒは、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国領の北部地域に相当するシュレースヴィヒを失った(→シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。

参考文献

  • デビッド・ウォーンズ著、栗生沢猛夫監修『ロシア皇帝歴代誌』創元社 2001年 ISBN 4-422-21516-7

テンプレート:ロシア君主一覧

先代:
カール・フリードリヒ
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公
1739年 - 1762年
次代:
パウル
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