コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 君主 テンプレート:Greek Royal Family コンスタンティノス2世テンプレート:翻字併記1940年6月2日 - )は、ギリシャ王国の最後の国王(在位:1964年3月6日 - 1974年12月8日)。

経歴

パウロス1世と旧ハノーファー王家出身のフリデリキ王妃の第2子として生まれた。姉はスペイン国王フアン・カルロス1世の王妃ソフィア1960年、20歳のときにローマオリンピックに出場し、セーリングのドラゴン級で金メダルを獲得した。

1964年、父パウロス1世の死去により即位した。同年、デンマーク女王マルグレーテ2世の妹であるアンナ=マリアと結婚した。姉妹とコンスタンディノス2世は、ともにデンマーク国王クリスチャン9世の玄孫に当たり、グリュックスブルク家の同族であった。

国王としては首相ゲオルギオス・パパンドレウと緊張関係にあり、国軍の指揮権を巡り争った。 パパンドレウは1965年に辞任し、政局が不安定化したため、1967年4月21日に軍事クーデターが生じた。同年12月にコンスタンディノスは家族を連れてローマに脱出した。その後も国王不在のまま、形だけの君主制が続いていたが、1973年軍事政権は君主制を廃止し、共和制を宣言した。1974年にはコンスタンディノス・カラマンリス率いる民主化政権のもとで2度目の国民投票が行われ、大差をつけて正式に君主制の廃止が決定した。

ギリシャの民衆と政治家の中には、軍事クーデター前後における政治の混乱を、コンスタンディノス2世が原因だとする意見が強い。パウロス1世とギリシャ共和国双方で首相を務め、後には大統領も務めたカラマンリスは、コンスタンディノス2世を「パウロス1世のわんぱく坊主」だと軽蔑していた。他の政治家の中には単に馬鹿者と呼ぶ者もいる。国民投票の動向が決定した1974年12月8日のラジオ演説でカラマンリスは、「今日、国家の癌が国民全体により否定された」と述べた。これは当時の世論を如実に物語っている。

亡命後

コンスタンディノス2世は長年にわたり、王室財産に対する権利やギリシャの市民権を主張していたが、ペルソナ・ノン・グラータとしてギリシャ共和国への一時帰国を拒否された。コンスタンディノスが初めて一時帰国を果たしたのは1981年、王太后フレデリキをタトイにある王家の墓所に葬るためであった。2004年にも一時帰国し、アテネで行われた第28回夏季オリンピック大会では国際オリンピック委員会委員として出席した。12月24日には旧王宮(現大統領宮殿)を訪れ、コンスタンディノス・ステファノプロス大統領と会談している。

王室財産問題でギリシャ政府を欧州人権裁判所に提訴するために、名字を名乗る必要に迫られた際、コンスタンディノスはギリシャ語で「ギリシャの」を意味するτης Ελλάδας(ティス・エラザス)に決めた。これはスペイン語ではde Grecia(デ・グレシア)となり、アテネ・オリンピックで一時帰国した際には、スペイン語名Constantino de Grecia(コンスタンティノ・デ・グレシア)で、王室とつながりの深いデンマークの外交パスポートを持って入国した。

現在は家族と共にロンドンに在住する。チャールズ王太子(男系の又従兄弟同士である)とは親しい間柄であり、ウィリアム王子の名付け親でもある。王制が廃止された後は、広義の王位請求者に含まれることもある。

家族

アンナ=マリア王妃との間に3男2女をもうけた。

外部リンク

ファイル:Royal Wedding Stockholm 2010-Konserthuset-412.jpg
コンスタンディノス2世夫妻(2010年、ストックホルム)

テンプレート:MedalTop テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalBottom テンプレート:Sister

  1. 転送 Template:S-start


 |-style="text-align:center"

|style="width:30%"|先代:
パウロス1世 |style="width:40%; text-align:center"|ギリシャ国王
1964年 - 1974年 |style="width:30%"|次代:
(王制廃止)  テンプレート:英王位継承box

  1. 転送 Template:End